江戸時代中期の社号標石(以下単に標石と略す)
吹田市内の佐井寺伊射奈岐神社(佐井寺1丁目)と山田伊射奈岐神社(山田東2丁目)の2ヶ所のほか、大阪府内に11基(茨木市4、大阪市4、箕面市1、池田市1、能勢町1)、兵庫県内に7基(神戸市2、尼崎市1、宝塚市1、三田市1、川西市1、西宮市1)あり、吹田市の2基を含めて合計20基となり、その分布は旧摂津国に限られます。
これらの標石は上記の吹田市に所在するものと同様、共通した特徴として、花崗岩製の標柱石及び台石(多くが2段)で構成され、標柱石の正面に大きく社号、右側面に村名が刻まれ、上段台石の一面に「菅廣房建」と記されています。
標柱石は、江戸時代の長さの単位(1尺≒30.3 、1寸≒3.03 )では正面・側面長約8寸、高さ約3尺でほぼ同一の形状と規模です。
上段台石は正面・側面長約1尺4寸〜1尺5寸、高さ約8寸、下段台石は正面・側面長約2尺、高さ1尺4寸〜1尺7寸を測り、下段台石の高さがややばらつきがあるものの、他の点ではほぼ一定の規格性が認められます。
しかし、台石が1段のみのもの(細川社、野間社、有馬社)や自然石を台石にしたもの(高賣布社)も認められます。
さて、これらの標石はいつ、誰が、何の目的で建てたのでしょうか。
遺存する標石だけでははっきりしませんが、建立のいきさつについて書かれた史料が残っており、それにより以下のことがわかっています。
江戸時代中期、儒学者の並河誠所は『摂津志』(『日本輿地通志畿内部』)を編纂する際に所在が不明であったり、混乱していた式内社(平安時代前期に編纂された『延喜式神名帳』に掲載された神社のことをいいます)を考証し場所等の比定を行っていました。
誠所はさらに式内社を顕彰することを考え、再三にわたり幕府に標石の建立を提言していましたが、ようやく幕府の許可を得ることができました。
元文元(1736)年9月、摂津国内の20ヶ村の各代表が大坂町奉行所に呼び出され、寺社奉行の大岡越前守(忠相)よりのお達しと
いうことで、村の氏神に標石を建てること、その際大坂の石屋で用意した石を取り寄せること、その設置については赤川村の武右衛門(東生郡赤川村の庄屋で並河誠所の高弟 久保重宜)の指図を受けるようにとの指示がなされました。
また、標石の取り寄せが困難な場合は台石のみ地元の石材を使用することも認められ、地黄村(野間社)、西尾村(有馬社)、酒井村(高賣布社)、吉田村(細川社)の4村はその適用を受けました。
これら4社で現存する標石のうち規格性のある台石が1段あるいは無いのはこうした理由によるものと思われます。
こうして現地には高齢の並河誠所にかわって久保重宜が赴き、各村をまわって建立場所等について指示し、標石は元文元(1736)年から翌年にかけて建立されたということです。
並河誠所は元文3(1738)年に亡くなりましたが、翌年に久保重宜は『摂陽延喜式神社在所巡参記』という絵図を刊行し、摂津国内の式内社、特に標石を建立した二十社についての顕彰とさらなる普及を図りました。
なお、台石に刻まれた菅廣房は建碑のため資金20両を提供した山口屋伊兵衛(大坂の人という以外詳細不明)のこととされ、建碑に尽力したことの感謝として名前が刻まれたといわれています。
菅廣房は元文元(1736)年に佐井寺村の庄屋宅で亡くなったといわれ、その墓と伝えられる「菅氏墓」と刻まれた墓石が佐井寺の墓地に現存しています。
以上のように元文元(1736)年から翌年にかけて並河誠所により式内社の顕彰を目的に摂津国の式内社20社に規格性のある標石が建てられ、先に紹介しました佐井寺・山田伊射奈岐神社の標石はその一部ということになります。
これらの標石は建立の目的やいきさつ、時期等がわかっており、また当時建立されたと思われる20基全てが遺存することからも、貴重な資料といえましょう。 (「元文年間建立の社号標石について」吹田市文化財ニュースNo.25−H16.3.31−より要約) |