西を向いて坐す巽神社の一の鳥居は200m近くはあろうかという参道上にあるが如何せん、内環状道路でぶち切られている。、結構立派な参道であったに相違ない。ところでこのお社の来歴はややこしい。 |
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二の鳥居と拝殿。前に茅の輪がまだあった。夏越し(6/30前後)だったり元旦前後と聞いたがここのは違うのかな? |
拝殿越しに望む本殿の屋根。 |
杭全神社一の鳥居。 |
参道標柱の横に樹齢1千年といわれる大楠がある。高さ約30m、太さは約10m、大阪府指定天然記念物。 |
大門。参道の敷石は元大阪市電の軌道敷石が使われているとのこと。撮影者の背後が工事中だった。 |
拝殿。 |
本殿。左より第一、第二、第三と並ぶ。実は本殿はさらにこの内側に鎮座している(僅かに真ん中の第二殿の大棟木が覗く)ので、見えている手前の構造物は“拝所”か。 |
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平野公園に鎮座(逆か!)する赤留比売命神社拝殿。西面する。杭全神社の摂社だがもと住吉さんの末社だったという。 三十歩神祠(さんじふぶのやしろ) 平野郷中野堂町にあり。〔延喜式〕に曰く、赤留比賣命神社。祭神玉依姫。例祭三月二十六日。夏日旱天の時、雨を祈るに霊験速なり。神木に楡の大木あり。(攝津名所圖會) |
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本殿。 |
北側から。灯籠の左右に本殿・拝殿が見える。手前から神社背後への土盛りは平野郷時代の環濠の土塁の一部。 |
喜連の静かな住宅街のなかに鎮座まします楯原神社。正面を西に向ける。ちなみに北側に隣接する如願寺はもと神宮寺。 |
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本殿。このまわりに神社創建に与ったとされる息長氏の碑や十種神宝社などがさしたる説明もないままひっそりとしずまっていた。 |
本殿背後には珍しく注連縄をはった扉があった。。 |
楯原神社(たてはらのかみのやしろ) 西喜連村にあり。〔延喜式〕に出づ。住吉に楯御前社あり、同神ならんか。證不詳。今天満宮と稱す。後世神名相変る事島下郡茨木明神の下に辨ず。當所此所の生土神とす。例祭九月二日。(攝津名所圖會) |
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中臣須牟地神社正面。鳥居下は柵で完全に閉鎖。西方(向かって左)約100mに別の鳥居があり、そこに「式内大社中臣須牟地神社」の石碑があった。普段はそちらを使っているようだ。 |
本殿。覆屋だろうが何と普通のつくりで“それらしくない”のに一驚。 |
中臣須牟地神社拝殿。社務所が見当らず、社前の巨木、鬱蒼とはしていないがそれなりの鎮守の森、それらが何とも勿体なく思えた。ちなみに当所は住道矢田、「すんじやた」と読み、漢字変換もできる。この「すんじ」は「須牟地(スムチ)」の転訛に相違ない。鳥居前の道路を隔てて南に妙な空き地がある。道路でぶった切られた旧社地のようだ。中臣須牟地(なかとみすむち)神社 住道村にあり。今、住吉と称す。〔延喜式〕には摂州にあり。(後略)(河内名所圖會) |
霰松原公園。乃公は「万葉を歩く」講座で一度訪れた。(→ここ) |
「天水分豊浦命神社旧蹟」碑。ちなみに式内社としての社号標石は、明治40年に遷座した止止呂支比賣命神社内の霰松原荒神社前に据えられている。 |
3つの祠が並立しているが、真ん中が霰松原荒神の祠。いずれも北向きである。左が金高大明神(商売繁昌)、右が朝日明神・榎明神・滝川稲荷大明神(商売繁昌・農業の神・所願成就)。 荒神祠(くわうじんのほこら) 安立町にあり。社地を霰松原といふ。祭神三座、奥津彦命・奥津姫命・土祖神、都て歩王社と稱す。(攝津名所圖會)。 これがもひとつよく分からない。 |
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杉本町会館。右手掲示板の向こう、塀の中に右の碑がささやかに建つ。 |
「努能太比賣命神社社址」の碑。下記のようなことでこれも明治40年大依羅神社に合祀された。 |
大依羅神社一の鳥居。ここは北向きなのに社殿が正面になく、東向きになっている。 |
本殿。千木が印象的。ここで幸いにも神社研究の碩学とお逢いしてしばし高説を拝聴した。 |
大依羅神社本殿。なんともすっきりした佇まい。 攝津名所圖會に曰く、「大依羅神社(おほよさみのかみのやしろ) 住吉の東南三十町許り、大和川北堤の下庭井村にあり。〔延喜式〕に曰く、大依羅神社四座、大、月次、相嘗・新嘗。祭神大己貴命・月夜見尊・垂仁天皇・五十帥宮の四座なり。(後略)」。 社頭の掲示によれば祭神は 大巳貴命,月読命,垂仁天皇,五十猛命,住吉三神のほか建豊波豆羅和気王、大山咋大神、草津大歳(くさつおおとし)大神、建速須佐男大神、奴能太比賣(ぬのたひめ)大神、奇稲田媛大神、八桂御子大神 などとなっている。建豊波豆羅和気王とは在郷の権力者=土豪らしい。それを祀ったお社に大山咋以下をそれぞれ祀った地区のお社が合祀されたということのようだ。でもここには住吉三神の名号は見えず、攝津名所圖會の時代には祀られてなかったのか。 |
苅田福祉会館内にある「式内草津大歳神社趾」碑。明治40年に大依羅神社に合祀したため今や“跡地”。閉まっていたが掃除中の係の女性に無理をお願いして鍵を開けて入れて頂いた。記して感謝。 |
会館内に聳える大楠。裏門から写しても全部入りきらないほどの巨木だ。 |
阪急電車の高架沿いにある呉服神社の一の鳥居。その向きから判断すると線路敷設、住宅街開発の時に移設されたものか。 |
境内にある姫室碑。猪名津彦が応神天皇の命で中国呉の国から迎えたという機織姫の塚という。前回(→ここ)は何故か入れなかった。 |
呉織神社(くれはのじんじゃ) 池田の町、南端にあり。此地の生土神とす。例祭九月十八日。社内に猪名津彦の祠、影向石あり。末社五前・観音堂あり。 と攝津名所圖會に記されているが、今や猪名津彦の祠らしきものはなく、この【伊那?彦??】という標石を従えた古跡が本殿の脇にある。これが猪名津彦の祠で、注連縄・玉垣の向こうの石が“影向石”なのか? |
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昨年来北摂の式内社巡りをおっぱじめた。その途中で式内社社号標石二十ヵ所が気になり、まずそれをクリアしようとの試みが今日この細川神社で完結した。宮司さんにご無理をお願いしました。記して謝意を表します。 攝津名所圖會に曰く「細川神社(ほそがうのじんじゃ) 吉田村慈恩寺山にあり。延喜式内。今毘沙門天と稱し、久安寺奥院とす。毎年正月十五日富會あり。細河谷六ヶ村より支配す。」 保存状況は極めてよい。 |
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覆屋内の本殿。社号標石は向かって右脇にある。 |
拝殿。奥の一段高いところにある木柵が本殿の神域で、前回(→ここ)見つからなかったわけだ。 |
今日のルート: 地下鉄長居駅→多米神社旧地→長居駅=地下鉄北花田駅→須牟地曽根神社→北花田駅 |
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須牟地曽根神社全景。 |
本殿。 |
堺市北区蔵前町に坐す須牟地曽根神社。まあ分かり難いこと夥しい。鳥居がなかったら見逃すかもしれない。この蔵前や傍の船堂などの集落は、集落内の小路が“筋違”になっていて見通しが利き辛い。 |
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多米社旧地の全景。大楠が旧社地の名残を伝えるかのように高く聳えて雰囲気を引き締めている。 |
多米社旧地正面。鳥居の扁額には「多米社」とある。 |
ここは大阪市住吉区長居2丁目。JR長居駅北200m。多米社の社号標石を据えた社地がある。ここは先日訪れた神須牟地神社の管理下にあるらしい。こういう碑石だけを祀った“お社”も珍しいのではないか。神須牟地神社境内にあった説明書きにはこうあった(神須牟地神社の項省略)。 「多米神社は古い豪族多米連が創建したと称せられ延喜式内社の古い神社で別名苗見神社又種貸神社とも言われ又ただ明神さまと称して浪速の名所に数えられ農耕の神又子宝の神として崇敬があった。又言伝えによると住吉大社の御田植の苗を当社で栽培したと言う。/元文元年(1730年頃)9月徳川幕府は神須牟地神社及び多米神社の廃滅に瀕せしを憂い、幕史菅廣房に命じて双方の地に神須牟地社・多米社と刻んだ石碑を建立して現存している。」 |
今日のコース:JR鶴橋駅→比賣許曾神社→生国玉神社→地下鉄本町駅=地下鉄肥後橋駅→坐摩神社→大阪産業創造館 |
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その昔乃公が職を奉じていた道修町の薬品会社は秋の神農祭が町の“本祭り”として、そして御霊神社およびこのざまさんこと坐摩神社の例祭がご近所の祭礼として“貰い休み”と称して休日であった。有給休暇などなかった時代と記憶する。今は昔。 |
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拝殿。 |
本殿。左背後はイトチューさん本社ビル。 |
この生玉さんこと生國玉神社の西に接する下寺町は大阪の寺院密集地。古い話だが高校時代コンクールで上阪するとき常宿はこの界隈の寺院であった。 |
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拝殿。 |
本殿。 |
JR鶴橋駅から数分という場所で、写真から読み取れるとおりの環境にある比賣許曾神社。社頭の説明板に「実に荘厳なる社殿なりしも数度の兵乱により改築毎に小社となり遂に天正年間織田氏の石山本願寺攻めの兵火に遭い辛くも難を避けて摂社なる牛頭天王社に移りぬ云々」とあったが、それだけ古は大きかったということだろう。今や民家やアパートが神社の軒すれすれに立ち並んでいる。 |
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拝殿。お昼の写真は難しい。色が出ない。 |
本殿。 |
今日のコース: 福井宮の前→新屋坐天照御魂神社→宿久庄 |
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旧亀岡街道から西に向かって最初に出会う一の鳥居。扁額には読み取り辛いが「新屋大社」とある。 |
本殿。たまたまか、いつもか、本殿周囲に入ることが出来てラッキー。 |
新屋坐天照御魂神社の社号標石。前回(→ここ)訪れた時は本殿脇に入れなかったのか、はたまた見落としたのか定かでない。 |
絵所長者・巨瀬金岡ゆかりの金岡神社は、元来住吉大社ゆかりの三神を祀るが、明治40年頃に式内社・須牟地曽爾神社その他を合祀したという。上左の本殿には三神を祀ると思われるが真ん中が須牟地曽爾神社の祭神だという説もあるらしい。右は拝殿。 |
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西面する金岡神社の全景。すぐ右脇を古代の官道・竹内街道が走っている。 |
今はすみよっさんの境内外末社で杜若の池の中に鎮座するのだが、江戸時代はそうでなかったみたい。 |
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志賀明神社(しがみゃうじんのやしろ) 大海神の摂社にして北側にあり。一棟三扉、海少童三神を祭る。又彦火々出見尊・豊玉姫・豊玉彦の三神ともいふ。按ずるに、近州志賀郡辛崎一つ松の神社も海少童命を祭る。故に志賀神社となづくるならんか。(攝津名所圖會) うん、そうか、そうか。 |
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若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう) 一の神殿の南に西向の社なり。祭神 應神天皇。相殿武内宿禰。神勅有りて新羅國を神功皇后の胎中天皇に授け給ふ。仲哀帝神勅を用い給はず、強て熊襲國を征し給ひ、流箭に中って終に崩じ給ふ。皇后住吉の神勅に従うて、三韓を恙なく平げ、筑紫に帰陣し、筑前國宇彌郡に於て譽田天皇を産みたまふ。これ應神帝にして、若宮八幡宮と崇め奉る。(攝津名所圖會) てなことは全く問題外みたいで、写真左前方の「五所御前」では「五・大・力」の小石を拾うのが大流行でした。すみよっさん随一の“パワーポイント”なのだそうです。 |
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住吉大社の末社・種貸社は式内社・多米神社の論社の一つ。攝津名所圖會には「苗見神祠」で掲載されており、同一なのかどうか定かでないが、祭神は同じであり、南向きというのも同じなので同一と考えて引用する。 |
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住吉大社の末社・大歳神社は式内社・草津大歳神社の論社の一つ。攝津名所圖會には次の通り記されている。 大歳神社(おほとしのかみのやしろ) (編者注:住吉大神社の)本殿南一町許に西向の社なり。〔延喜式〕に、草津大歳神社とは是なり。祭神素盞烏尊御子大歳神なり。五穀神とす。近年浪華の商人、金銀通用契約の不変を節季前に祈る。京師下嵯峨車折明神の類なり。大歳の號より節季に祈る歟、其由緒をしらず。神は尊敬より霊應新なれば、詣して崇恭に幸を得る事疑なし。(攝津名所圖會) ただ現在は御本殿脇の『おもかる石』のお宮さんとしての方が有名だ。 |
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住吉大社摂社・大海神社。北門を入ったところにある。本宮と同じような拝殿(左。右は本殿)があってほかの摂社・末社と雰囲気が違う。 大海神社(おほうみのかみのやしろ) 玉出島の上に西向の社なり。祭神豊玉彦・豊玉姫。〔延喜式〕に、大海神社二座、元は津守の安人神とあり。(攝津名所圖會) |
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住吉大社摂社・船玉神社。第四本宮の南西にある。 船玉神社(ふなだまのかみのやしろ) 楯祠の西南にあり。祭神天鳥船命・猿田彦命・塩土老翁を祭る。傳記神秘。〔延喜式〕に出づ。(攝津名所圖會) そばの碑は海運会社から奉納されたものだった。 |
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各本宮の本殿。上左 第一本宮・上右 第二本宮、下左 第三本宮・上右 第四本宮。(拝殿の写真は→こちら) |
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止止呂支比賣命神社境内の一角にある「霰松原荒神」社。ここが式内社・天水分豊浦命神社と言われており社号標石が置かれた。ところが攝津名所圖會にこんな記述がある。 荒神祠(くわうじんのほこら) 安立町にあり。社地を霰松原といふ。祭神三座、奥津彦命・奥津姫命・土祖神、都て歩王社と稱す。(攝津名所圖會) この記述では江戸時代安立町にあったものがここに遷座したらしい。それにしてもこの式内社とどのようにして結びついたのだろうか。 |
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天水分豊浦命神社社号標石。この標石面にも遷座の歴史が碑面に翳をおとしているかのようだ。 |
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止止呂支比賣命神社。左は社前の標柱。右は本殿。 若松神社(わかまつのかみのやしろ) 澤口村の東半町許りに東向の社なり。祭神素盞烏尊・稲田姫なり。〔延喜式〕に曰く、止抒侶支比賣神社とあり。社頭に止抒侶支池・轟橋あり。旧記に曰く、承久三年二月四日、若松御所を造進ると云々。社説に云ふ、後鳥羽院熊野御幸の時、住吉其徑なれば、津守経國若松の林中に御所を造り行宮とし、則渡御し奉る。今此社を村民の生土神とす。例祭八月八日。(攝津名所圖會) |
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正面から拝殿を望む。上記のように通称「若松神社」。境内社に天水分豊浦命神社を併祀する。(別記) |
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神須牟地神社。左は正面鳥居。右は拝殿。このお社の境外末社に式内・多米社がある。当社境内社とのデータもあったのでさんざ迷った末、神職さんに確認したら当社内ではなく、東北5分ほどのところに旧社地があり、標石もあるとのことであった。今日は別件集合時間の関係で涙を呑んで割愛。 |
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神須牟地神社の社号標石。いままで見た中で最も碑面の磨耗が激しい。特に第一文字。あちこち遷座したという記録があり、その結果だろう。 |
今日のコース:循環器病研究センター→爲那都比古神社→今宮=石橋北口→猪名津彦神社→阪急池田駅 |
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拝殿。 爲那都比古神社(いなつひこのかみのやしろ) 白島村にあり。延喜式内。萱野谷十一村の生土神とす。今大宮二座と稱するは、爲那都夫婦の二神を祭るならん。天正年中織田信長高山右近に命じて、攝州の寺社を剥落す。其時神人牛頭天王と神號を改めて愁訴す。牛頭天王は信長の氏神なれば、其難を免れて纔に存す。例祭九月十五日。神輿を同郷五箇の攝社へ渡し、供奉の人々は白幣三十本を捧げ、神馬一疋・神主・社僧十五人・村民ことごとく供奉す。五箇の攝社は東伊那・西伊那・今宮村・芝村・宿村等にあり。(攝津名所圖會) この摂社など10社が明治40年頃すべて当社に合祀されたという。 |
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一の鳥居。向うに二の鳥居の代わりだろうか、神門が見える。 |
本殿。 |
社号標石。ここのは徳川八代将軍吉宗献納云々という丁寧な説明書きの碑がそばにあるが、どうみても並河誠所という名前は見当らなかった(ように思う)。 |
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池田市宇保町の住宅地に鎮座する猪名津彦神社。伊居太神社の末社だそうであるが、その伊居太神社にも同名の境内社がある。(↓次項) |
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拝殿。この右脇に差渡し2mはあろうかという巨木の切り株、そして注連縄が張られた巨石があった。ここ宇保町の中心地は阪急池田駅のすぐ南で微高地。農業主体の時代の住居地だ。 |
本殿。宇保町の鎮守というにはあまりにも“あっけらかん”として雰囲気が無い。さして遠くない呉羽神社にお役目を譲渡したようにも感じられる。 |
昨年5月に訪れた池田・伊居太神社の境内社・爲那都比古大明神。【→こちらもどうぞ】 |
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猪名県が成立したとき、その首長である県主には為那都比古の後裔に当たる者が任じられ、彼等は氏族の祖神として代々為那都比古神をお祀りしてきたのである。(mino-sigakuさんのサイトを引用しました。多謝。) |
今日のコース: 桃山台駅前→下新田春日神社→上新田天神社→千里中央 |
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上新田集落の北縁・竹林を背負った丘陵にたつ鳥居。扁額は「天神社」。 |
本殿(覆屋中)。 |
上新田に坐す天神社拝殿。ここは「とんど祭り」が有名で民俗文化財に指定されている。千里ニュータウン内には神社がない。それで当時唯一「開発除外地となったニュータウン内の旧集落」の鎮守社が“ニュータウンの総鎮守”を謳い文句とし、その役割を務めている。最近宅地開発で背後の鬱蒼とした竹林が消えつつあるのが残念。 |
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昔は田んぼ道から見えていたが、今やマンションの陰になってしまった鳥居。 |
本殿はこの覆屋の中。 |
春日神社拝殿。今や吹田市春日3丁目となったが、かつての「下新田村」の鎮守。上新田と同じく江戸時代の『新田』開拓(17C)期の鎮座。 |
今日のコース: 千里山→服部緑地公園→小曽根Y整形外科跡→服部住吉神社→服部 |
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本殿。 |
能舞台。府下最古のもの。といっても明治時代のものを大阪天満宮から移築。 |
住吉神社拝殿。起源は12世紀中葉、もしくはそれ以前と推測されているらしい。天竺川沿いであるが、水とのかかわりは不明。同じ服部に坐す天神さんは結構有名だが、ここのほうが長い参道を含めて“森厳”感がある。 住吉祠(みよしのやしろ) ニ前あり。一は宮前村、一は長興寺村にあり。旱の時新婦の者鍋を載き、神前にて雨を祈れば忽霊験あり。(攝津名所圖會) この「宮前」がここなのだろうか? |
今日のコース: 桃山台駅前→服部緑地公園→素盞烏尊神社→垂水神社→阪急豊津駅 |
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素盞烏尊神社鳥居の扁額は「感神宮」。京都祇園八坂神社との関係を伝えているらしい。 |
本殿。 |
簡素な感じの拝殿。境内西側のご神木の傍には古墳由来の石棺の蓋が立てて祀られていた。また東隣にはお寺があって長らく“習合”状態にあったことがありあり。 |
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垂水神社一の鳥居。杜へ向かって立派な参道が延びる。 |
入口のところでさらに二の“鳥居”。 |
急な石段をのぼると三の鳥居。そして拝殿が見える。 |
本殿。 |
拝殿。 「垂水神社(たるみのかみのやしろ) 垂水村上方にあり。〔延喜式〕に曰く、名神大。月次、新嘗。預祈雨祭及八十島祭。其八十島時。祝賜布二端云々。例祭六月三十日・九月晦日。」(攝津名所圖會) |