堤根神社。このお社は何とも清楚な感じがいい。社頭の説明にも敢えて“式内”云々を強調していないのもいい。河内名所圖會には 「堤根(つゝみねの)神社 常称寺村にあり。〔延喜式〕出。(以下略)」 と記し、現在の 宮野町鎮座のお社 があてられているが、この稗島に坐すお社がもう一つの論社なのである。 |
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堤根神社社頭。 |
同社本殿。 |
このお社は何と言ってもこの楠にとどめをさす。名付けて薫蓋樟(薫蓋楠とも)。目通し約15m。府下最大という。河内名所圖會に、「三社権現祠(さんじゃごんげんのやしろ) 下嶋、八番二村の堺にあり。此辺の生土神とす。」 とあるのはここのことか?古い地名がわからないので間違っているかもしれない。 |
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薫蓋楠全景。1938年国の天然記念物に指定された。 |
三嶋(多分、みつしまと読む。近所の地名が三ツ島)神社社頭。 |
須波麻神社拝殿。 |
同社本殿。背後割りに近いところを阪奈道がのぼってゆく。音が聞こえる。 |
中垣内の集落のゆるい坂がやや傾斜を増したところに鎮座する。「洲浜」は有名な紋所で海浜・水辺に縁のある氏族の用いるもののようだが、古の“河内潟”が近かったと思料されるところからつけられた名前か。「須波麻神社(すはまのじんじゃ) 鋤靭。〔延喜式〕出。中垣内村にあり。此地の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
八坂神社正面大鳥居(正面はもちろん南)。 |
本殿。右に軒ののぞく舞殿では詩吟発表会の最中であった。 |
日向大神宮一の鳥居。ただし境内社の「神田稲荷神社」奉賛会寄進のものだった。(そう石柱に彫ってあった) |
外宮前の拝殿(京都によくある舞台造)。 |
日向大神宮外宮。千木が外削ぎ。こちらの鰹木は7本。 |
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同内宮本殿。千木が内削ぎなのは祭神が天照大御神以下全て女性神だからと説明されている。しかし祭神はここと同じの筈なのに伊勢は内外宮とも外削ぎだそうで、この説は俗説だとも。鰹木が2本欠落している。 |
内宮のそばを山道40mでこの「天の岩戸」。戸隠神社が祀られている。 |
この細屋神社は事前予備知識と異なって、寝屋川・打上川の遊水域にあるもののいいお宮さんだった。写真は寝屋川岸の道標から神社の社叢を望む。なお「細」は「星」の転訛で星信仰とのつながりを云々する説もあるという。 |
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「式内社・細屋神社」とは言い条、祠と呼ぶのが相応しいささやかさだ。 |
今やお参りする人もお世話する人も殆どいないのでは、と思わせる寂寞感があたりに漂う。この鳥居は手前10mほどに旧鳥居が立っていた痕跡があり、その石材の一部を新しい鳥居の台座に利用したように見える。 |
熱田大明神から桜ヶ丘を経て打上川治水緑地に入ろうとして道を失う。だから新興住宅地はヤなんだ、というのは言い訳か。左へ取るべきを右にとってしまってからは行き止まりの連続。古い集落ではまず道なりに歩いて迷ったことはない。時計の文字盤でいえば、Kに来たつもりがBかCに来ていて、方向修正に手間取った。 |
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太秦の町中にも小高い丘があってこの熱田大明神が坐す。祭神は府下四社という日本武尊。この一帯は弥生時代の高地性集落があったという。古墳時代の雄鹿の頭部埴輪が出土したとも。太秦廃寺跡などもあってまさに歴史の宝庫。 |
西方約200mにある熱田さんの御旅所。 |
高宮神社から東方約300m、急坂を上がるとそこは鬱蒼とした木々にまもられて大杜御祖神社。近隣が結構な住宅開発の波に飲み込まれているのに何故。それは高宮廃寺跡として国が史跡に指定しているから。東西二塔が聳える薬師寺式伽藍があったのだという。「高宮大杜祖(たかみやおほもりみおや)神社 高宮村の東にあり。此地の生土神とす。(河内名所圖會/本書には“延喜式内”である旨のの記述がなく、また社名に“御”の字が欠落している)」 |
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大杜御祖神社本殿。 |
同社拝殿。背後は広大な森。 |
高宮神社は高宮集落の小高い丘の上に坐す。この所在の故に高宮か、と、ド素人はいとも簡単に自分を納得させる。いい場所だったのだろうが、今や直ぐ傍まで民家が密集し、旧記にある神宮寺の影もなく、かくて鎮守の雰囲気は至極希薄である。「高宮(たかみや)神社 高宮村にあり。〔延喜式〕曰、大。月次新嘗。(中略)傍に神宮寺あり。(河内名所圖會)」 |
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高宮神社本殿。指先とセルフタイマーだけを頼りに撮るとこういうモンである。 |
神社全景。囲繞する小路は、それはそれでいいもンである。手前は市内どこでも見かけた「鉢かづき姫」の案内板。 |
式内嶋田神社本殿。春日造。崇道天王社とも。祭神崇道天皇(早良親王)、神八井耳命(綏靖天皇の兄)。 |
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嶋田神社正面。当社は明治以前は西400mの崇道天皇陵内にあったという。 |
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隼神社。京都の隼神社(式内社)の元社とも。角振新屋町在。 |
率川神社。大神神社の摂社で式内社。子守町に在って「子守明神」とも。近くに率川の旧流路跡・橋標柱があった。 |
式内 赤穂神社。あの四十七士には関係ない。高垣町に坐す。「赤穂神社(あこのかみのやしろ) 下高畠町南側にあり。神燈台石に『春日若宮神之坊社』とあり。(大和名所圖會)」 |
宅春日神社。白毫寺町在。 |
八阪神社。鹿野園町在。 |
白山比神社。藤原町在。 |
香具波志神社社頭の社名碑。このお社は式内社ではないが、たたずまいといい、何よりこの社名に歴史を感じる。 |
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香具波志神社拝殿。 |
香具波志神社本殿。 |
香具波志神社境内の梅。 |
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歯神社。綱敷天神社の末社という。梅田のややこしいところにぽっかりと。 |
高津公園にて |
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比賣許曾神社全容。 |
傍らの説明板。これによると、この比賣許曾神社こそが高津宮が鎮まるこの地の地主なのだという。 |
ここは比賣許曾神社論社の一。先月訪れた小橋坐のお社が“本物”と思うが、これも歴史である。攝津名所圖會によれば、「高津社(かうづのやしろ) 西高津にあり。例祭六月十八日、秋祭九月十八日。祭神仁徳天皇 但往古は下照姫命を祭れり。〔延喜式〕に、比賣許曾神社、名神大、月次、相嘗・新嘗、貞観元年正月、授従四位下といふ是なり。後に仁徳天皇を配祠せしより、下照姫の名はかくれ 仁徳天皇のみ稱し奉つる。(後略)」 とある。 |
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高津宮一の鳥居。道路が左下がりなので、おかしな感じの写真になってしまった。 |
地主神とは言い条、比賣許曾神社を載せて実質上の家主さんを載せない訳には行かないだろう。これは高津宮の拝殿。 |
左は志紀長吉神社二の鳥居。お社を探していて一の鳥居と二の鳥居の間に出てしまい、戻るのが億劫で前者は割愛。参道は凡そ300mほどはあろうか。長く立派。右は本殿。(2012.2 GoogleMapより借用して一の鳥居をonmouse-追加) |
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志紀長吉神社拝殿。 「志紀長吉(しきなかよし)神社二座 〔延喜式〕云、大。月並新嘗。(中略)長原村にあり。日蔭明神と称す。大嘗会の御時、日蔭蔓を貢奉る故に名とす。其蔓、神庫に収て、上貢に非ざるよりは、神人といへども、漫に見る事を得ず。又、社司の家に、長久永承年中の神祇官符を蔵む。当社郡内、〔延喜式〕と相違ふ。古老伝云、此地、旧名長吉。後世分ツてニツとなす。各々、一字を冒す。西を吉富といひ、東を長原といふ。倶に三郡の界に居し、志紀に属し、渋川に入り、本郡丹北に入也。(河内名所圖會/冒頭に“丹北は丹比の訛ならん”とある)」 このお社はこの写真でも自明のとおり真田幸村一色である。 |
梅宮大社二の鳥居と神門。 「梅宮(うめのみや) は四条の西、梅津の里にあり。祭ること四座にして、酒解けの神・大若子・小若子・酒解け子の神なり。相殿には橘贈太政大臣清友・檀林皇后嘉智子を祭る。(後略)(都名所圖會)」 梅宮というから梅林を期待して行ったが、数本植わっていただけ。それも撮影失敗して、何のコッチャ。 |
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舞台。このあたりの神社には結構多い。今日も松尾・月読・ここと三つ目だ。もっとも松尾では「拝殿」と書いてあったが。 |
本殿。このあたりの神社では本殿の前に拝殿が“デン”と構えているところがない。拝所に玉垣が連なって聖所を守っているようにみえる。 |
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早春愛宕山 |
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月読神社神門。ここも松尾大社の境外摂社である。 |
神社本殿。森厳の空気が漂う。 |
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月読神社の鳥居は桂の旧道沿い。どこかのサイトに「松尾大社の南500m」とあったが、そんなにはない。境内は京都市が史跡に指定している。都名所圖會にこう記す。「月読社(つきよみのやしろ) は松尾の南二町にあり。松尾七社の内なり。(当社鎮座のはじめは、往昔にして年歴知れず。松尾より以前と見えたり。斉衡三年三月に、山城国葛野郡月読社を松尾の南に移すよし、『文徳實録』に出でたり。(以下略))」 |
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松尾大社一の鳥居。西に山を背負ったお社を晴天の3時過ぎに訪れるとこういう写真になる。喝! |
二の鳥居。注連縄にぶら下がっているのが“脇勧請”。吊り下げられた十二の榊の枝は月々の農作物の出来を表すという、古習俗を残している。。そうだ。 |
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本殿。 「松尾社(まつのおのやしろ) は梅津の西にあり。(別雷山は社のうしろの山なり。当社の明神の降臨の地なり。松尾山ともいふ)。(中略)本社は祭るところ二座にして、大山咋神・市杵嶋姫なり(神秘あり)。大宝元年に秦都理といふ人、社を建てて分土山より遷し奉る。(中略)四月十一日、始めて加茂より山城国山田庄荒子山に伝へ奉る。加茂の丹塗りの矢化して松尾の神と現ず。すなはち秦良兼・同じく正光、松尾の守護となる。いまの社司の遠祖なり。松尾七社(月読社櫟谷社・三の宮・宗像社・衣手社・四大神・当本社<おのおの本殿の傍らにあり>(以下略))(都名所圖會)」 乃公訪問は初めて。思えば学生時代、寺院巡りはよくやったが、神社は何故か無意識に敬遠していたように思う。 |
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内側よりみた楼門。夕方の色が濃い。 |
拝殿。これもれっきとした“舞台”だ。他と違うのは、舞台上に修祓用のイスがしつらえてあったこと。 |
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櫟谷神社参道石段。このように「櫟谷宗像神社」と通称される。 |
本殿。松尾大社の境外摂社である。渡月橋南詰め右へすぐ。観光客目当ての色彩が濃い。曰く“えんむすび”。 |
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櫟谷神社の鳥居。見てのとおり扁額には「櫟谷神社/宗像神社」と併記されている。二社を一殿に併祀しているらしい。 「櫟谷(いちいだに)のやしろ はあらし山の麓にあり。松尾七社の内なり。(都名所圖會)」 |
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大井神社。 ※延喜式神名帳では大井神社は乙訓郡のお社として記載されているが、現存する場所は紛れも無く旧葛野郡。このため真偽をめぐってネット上では結構喧しい。ついでながらこのお社は「都名所圖會」に記載がない。(ちなみに大井⇔大堰川) |
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これでも“一の鳥居”。参道は駐輪場になっている。 |
覆屋内の本殿。 |
津嶋部神社拝殿。広い境内。 |
同本殿。当社は京阪大和田駅北方、同寝屋川駅西方、モノレール/地下鉄大日駅東北いずれも2km余の位置にある。京阪寝屋川・守口からの京阪バスでアプローチするのが楽か。 |
府道15号線に面するお社は東向きである。「津島部(つしまべ)神社 鍫靭。〔延喜式〕出。金田村にあり。嘉祥三年十一月、従五位下を授く。当村と対馬江村と共に生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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境内にある謎の石組み。おそらくは磐境の名残か。何の説明表示もない。 |
手水舎の水槽に刻まれた「延寶六戊午年十二月/河州大久保庄金田村/大宮天神御寶(前)/金龍禅寺/扶宗(??)」の文字が、かつて神宮寺の一で今尚隣接する禅寺・金竜寺との往時の密接な関係が窺える。ちなみに延寶六年は1678年。(これも説明なし) |
堤根神社一の鳥居から二の鳥居を経て拝殿を望む。 |
本殿。ちなみに当社へはかつて「万葉を歩く」講座で訪れた。( →ここ ) |
当社は京阪大和田駅東北200mに位置する。「堤根(つゝみねの)神社 常称寺村にあり。〔延喜式〕出。今、天満宮と称す。此辺、常称寺村、野口村、横地村、打越村、北嶋村等の生土神とす。例祭、九月十五日。傍に神宮寺あり。ここも常称寺といふ。(河内名所圖會)」 いま常称寺という寺は近郷に見当らない。堤根神社は門真市内にもう一社 「論社」 がある。 |
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堤根神社本殿裏に残る茨田堤跡。 「茨田故堤(まつたのふるつゝみ) 池田村より、太間、伊加賀に至って、故堤、僅に残れり。〔日本紀〕云、仁徳天皇十一年、茨田堤を築しめ、淀川の澇を防しめ給ふは、此所也。(後略)(河内名所圖會)」。碑の「伝」という添え字が歴史の風化を物語る。 |
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高瀬神社本殿。当社は京阪土居駅東南300m弱に位置する。 |
神社正面。旧道に沿うがそれを無視した十字路にも挟まれて恰も“六つ辻”状の忙しない環境にある。 |
拝殿。境内は至極狭いがそれでも木立ちなどのおかげか、一瞬外の喧騒を忘れさせ、“夏 涼しそう”という感を抱かせる。 「高瀬神社(たかせのじんじゃ) 小高瀬荘世木村の北にあり。〔延喜式〕出。今、八幡と称す。世木、馬場、両村の生土神とす。例祭、九月九日。(河内名所圖會)」 |
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上記“六つ辻”のロータリーに建つ高瀬川の碑。 「高瀬(たかせ)川 淀川の下流。小高瀬荘を遶るによって名とす。一説には、高瀬神社の前に溝渠あり、是を高瀬川といふ。(河内名所圖會)」 |
意賀美神社一の鳥居。このお社は枚方市駅と枚方公園駅の中間にある小高い岡に鎮座する。 |
二の鳥居。この岡には万年寺山古墳という古墳があった。また明治初期の廃仏毀釈でなくなった万年寺という寺もあった。 |
「意賀美(ゐがみ)神社 伊加賀村の山にあり。〔延喜式〕に出。此所の生土神とす。例祭、九月九日。(河内名所圖會)」 ゐがみとは名所圖會時代の呼称なのか、単に同書著者の思い込みなのか不明だが、これは現在の「おかみ」が正しいのだろう。「たかおかみ」は各所にある水の神の名前。「おかみ(もしくはおがみ)」は「龗」。ちなみにこのお社は元来ここに坐したのではなく、明治末期に合祀した須加神社の社地に遷座したということである。 |
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本殿。この向こう(北側)には裏参道がある。 |
梅林。さすがにここはまだ花が見えなかった。ここは枚方八景の一「万年寺山の緑陰」。塔婆は無くなった万年寺を偲ばせる。 |
枚方の住宅街ではロウバイが満開。 |
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片埜神社正面。南面する。東門があり、大阪歯科大がすぐ近く。朝原神社や瘡神社などの境外社、牧野公園、すべて広大な社地の一部であったらしい。 |
重文の本殿は修復中。神社はタイムカプセルを開けたような集落の中にある。 |
河内名所圖會にはこう記す。 「交野神社(かたのゝじんじゃ) 鍬靱。〔延喜式〕出。渚の北、坂村にあり。近邑八ヶ村の生土神なり。例祭、九月六日。式には片野神社と記す。祭神、牛頭天王。今、土人一ノ宮と称す。本地を帝釈天として、本地堂に安す。又、四天王、地蔵尊等を安す。鳥居より社まで、馬場前の松原、四丁余あり。(後略)」 「鳥居より社まで四丁」というからには「渚」は南西数百mにある穂谷川畔に相違ない。今そこに鳥居は見当らない。 |