まあ迷いました。河内山本駅から東北へ約600mと見当をつけたのだが、見つけるまでに間違って別のお社に飛び込むこと2回。しかも見つけた後ぐるりと回ってでないと入れない非常にややこしい場所にある。参道はあるが鳥居はない。西面する拝殿・本殿は一体化しているようで、このお社の置かれている立場がモロに出ていた。式部御野縣主神社(通称・式部之宮)。式内社・御野縣主神社の論社といわれてきたが、村が分裂した時に分霊を勧請したものらしい。右写真は参道から社殿(右側)を望む。左は公園。 |
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御野縣主神社正面鳥居。東面する。社叢は素晴らしい。かつてこの地一帯を支配していた豪族・美努連の祖神を祀る。前述式部之宮の北西約500mに鎮座。境内西側に玉櫛川(旧大和川)の堤防跡が残る。 「御野県主(みのあがたぬしの)神社 鍫靭。〔延喜式〕出。上ノ嶌御野郷辻にあり。今、天日ノ社と称す。式には若江郡の郡下に入。(河内名所圖會)」 |
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拝殿 |
本殿 |
さらに北西へ約1km。路線バスの走る狭い道路(河内街道)沿いに西面してこの加津良神社が鎮座する。鳥居から拝殿まで僅々数m。古代氏族・縵連が祖神を祀ったものと伝える。 「加津良(かつら)神社 萱振村にあり。〔延喜式〕出。(中略)今、牛頭天王と称す。此所の生土神とす。祭事の時は、生土の輩、神前にて松明を振りて神をいさむるなり。故に萱振の名あり。又、地蔵院の本尊は阿陀陀の画像、恵心の筆也。毘沙門堂、其外、伽藍の旧跡あり。(河内名所圖會)」 |
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本殿 |
神社裏玉垣の外に鎮守の杜のものとおぼしい木々が残る。正面も河内街道を挟んで向かい側に小公園があり、旧社地は大きかったことを偲ばせる。 |
更に北へ約1km、河内街道沿いに東面して鎮座する若江鏡神社。「若江鏡(わかえかゞみ)神社 若江村にあり。〔延喜式〕出。(中略)上若江、下若江両村の生土神也。例祭、八月十一日。(後略)(河内名所圖會)」 |
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拝殿。七五三に用いられたか、茅の輪が残る。 |
本殿 |
社殿のうしろ、社叢のなかにある鏡塚の祠。神功皇后が三韓より凱旋のとき鏡を埋めた墳と伝える。 |
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河内街道が近鉄奈良線を越えてすぐ、西方300m程に鳥居が望める。石田神社である。左手の燈籠に八幡宮とあるように長らく八幡社として斎き守られてきた。「石田(いはた)神社三座 石田村にあり。〔延喜式〕出。今、八幡と称す。此地の生土神とす。(後略)(河内名所圖會)」 |
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拝殿 |
本殿 |
若江郡・矢作神社 11月4日 |
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矢作神社拝殿。当社の名は河内名所圖會にはなく、明治に合祀された長柄神社についてのみ以下の通り記される。「長柄(ながら)神社 長八尾村にあり。鍫。〔延喜式〕出。今、子守勝手祠といふ。此所の生土神なり。」 |
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正面鳥居。西面する。 |
本殿 |
阪合神社拝殿。西面する。 |
同本殿 |
正面鳥居。「坂合(さかあひ)神社 小坂合村にあり。〔延喜式〕出。(中略)此所の生土神とす。(河内名所圖會)」 新しくキレイなのだがあっけらかんとして何の風情もない。 |
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府道5号線東本町五差路を北に入ってすぐ。公園になっていて、大きな石碑が目を惹く。鳥居は西面。 「長柄(ながら)神社 長八尾村にあり。鋤。〔延喜式〕出。今、子守勝手祠といふ。此所の生土神なり。(河内名所圖會:再掲)」。 因みに本社は明治の合祀令で上記矢作神社に合祀された。 |
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八尾神社を探していたら近鉄線高架の向こうに社叢が見えたので、予定外ながらフラリと立ち寄ってみた。穴太神社正面鳥居。式内社ではなく、河内名所圖會にも記載はないが、社頭の説明板にこうあるのが気になった。『当社は旧若江郡式内社の中にて、安康天皇の設けられた御名代部の一つ穴穂部の地にして、聖徳太子の生母、間人穴穂部皇后の生地であり、成人された地であって、その産土神として奉齊せられて来たと伝えられる。云々』 |
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拝殿 |
本殿 |
他社にもあったが、七五三用の茅の輪。向こうに拝殿 |
本殿。社叢がなく、探すのに苦労した。たまたま商店街の路地に当社の七五三の旗?があって見つかった。 |
近世では「牛頭天王社」であったが、明治維新後「栗栖神社」に改称し、明治41年(1908)更に現社名に改めた。「栗栖」はこの一帯の旧称だろうという(Wikipediaによる)。商店街の裏にあり南面する。「栗栖神社(くるすのじんじゃ) 八尾西郷村にあり。〔延喜式〕出。(中略)今、天王と称す。此地の生土神也。(河内名所圖會)」 |
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許麻神社拝殿。 |
同本殿。 |
高麗、狛などとも書かれる。渡来系の氏族に関係あるか。 「許麻(こま)神社 久宝寺村にあり。〔延喜式〕出。今、牛頭天王と称す。此所の生土神なり。末社に弁才天、天満宮を祭る。本地仏の薬師堂あり。(後略)(河内名所圖會)」 東面する。 |
石切劔箭神社上之宮正面。近鉄石切駅が最寄りなのだが、まあややこしい路地を抜け谷川を二つ渡って行き着く。それにしては迷わなかったなァ。 |
同社拝殿。約1名お百度参り最中で、気の毒で割り込めなかった。因みにここは平野が生駒山にかかる斜面で標高約140mに坐し、本宮(下のお社)より110mほど高い。 |
これが本殿なのだが、初めて見るガラスの覆屋の中にこれまた極彩色に彩られたご本殿をみて一驚した。「石切剣箭(いしきりつるぎやの)神社二座 神並村にあり。〔延喜式〕出。(中略)社説ニ云、上ノ社は哮峯にあり。下ノ社は当社也。例祭、六月十四日。神並、芝、植付、額田、日下等五ヶ村、生土神として祭祀を倶にす。(河内名所圖會)」 |
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石切さん、通称“でんぼの神さん”こと石切剣箭神社は前述石切駅から延々路地を下ったところに鎮座まします。この建物は二の鳥居と正面鳥居の間に存在感を示す絵馬殿。屋根の上には社名を現す剣と矢が四方を睨んでいる。 |
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拝殿前には無慮数十人がお百度参りの最中。鬱蒼たる楠の大樹も派手な太鼓台も目に入らぬかのように。 |
本殿 |
石切さんから西方2km余、阪神高速の南に鎮座する大津神社。左が拝殿で右の覆屋内に本殿がある。 |
拝殿。高層マンションを背にひっそり。先刻の石切さんの賑わいが嘘のよう。因みにこの地を水走と呼ぶ。 |
神社正面。「大津(おほつ)神社 〔延喜式〕出。旧、水走村にあり。(河内名所圖會)」 |
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大津神社から北西へ約1.5kmに坐す栗原神社正面。一の鳥居・二の鳥居と拝殿。T字路の正面という非常に判りやすいところにある。 |
本殿 |
栗原神社拝殿。 「栗原(くりはら)神社 〔延喜式〕出。吉原村にあり。今、梶原宮と称す。(河内名所圖會)」。 |
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宇波神社。社頭の説明板によれば「・・・神社の周辺は、まわりより少し高くなった所で、古代は水辺であったようで、この付近を白肩の津と呼び、船が停まれるような深さをもっていた所であったようです。加納の北西部に小字名で「シカタ」という所があることからも推定されますが、波打ち際に祀られた神社であったようです。・・・平成13年9月 東大阪市」という。「宇波(うは)神社 〔延喜式〕出。加納村にあり。今、熊野と称す。此邑の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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拝殿 |
本殿(覆屋) |