2015年 お社巡り  − その3 −

  

相楽郡・相楽さがらか神社(サガナカ とも) 10月19日

相楽神社社頭の鳥居。当社社地はこの門前の小学校校地まで含む広大なものだったようだ。
「相楽神社」や「相楽の八幡宮」の名前は【都名所圖會】ならびに【同拾遺】には見当たらなかった。

中門。扁額に八幡宮とある。

拝殿の中に懸かる扁額もこの通り。明治10年式内相楽神社に比定されるまで八幡宮として知られていたという。

拝殿

本殿(重文)。室町時代初期のものという。

相楽郡・祝園ほうその神社 10月19日

社頭の鳥居。祝園社(ほうそののやしろ) いま詳らかならず。『三代實録』曰く、「祝園社に従五位上を授く」と云々。〔都名所圖會〕、★春日社(かすがのやしろ) 同所、民居の北にあり。祭神春日大宮。土人生土神とす。例祭は九月二十日なり。一説、この社祝園神なりとぞ。この後者はどこだろう。

鳥居の扁額。800m南から一本道の突き当り。

中門

拝殿

本殿覆屋

相楽郡・和伎坐天乃夫支賣わきにますあめのふきめ神社(通称 湧出宮ワキデノミヤ) 10月19日

JR棚倉駅前の社号碑と一の鳥居。西面する。湧出(ゆしゅつ)社 祭るところ和伎坐天乃夫支賣神なり。一説には、一夜に湧出したまふ神なりと。ゆゑに名とす。この里の産沙とす。祭りは九月十八日。〔都名所圖會〕

二の鳥居。以下すべて南面する。

中門

拝殿。の筈なのだが、らしくない。

本殿

相楽郡・綺原坐健伊那大比賣かむはらにますたけいなだひめ神社(通称 綺原カンバラ神社) 10月19日

社頭の鳥居。西面する。

拝殿。本殿を含め南面する。

本殿。当社は天井川である天神川を背にした特異な立地条件化にある。近くにはかの有名な蟹満寺かにまんじがある。【都名所圖會】梶原社(かじわらのやしろ) 綺田の南にあり。祭るところ梶原平三景時が霊なり。一説には『延喜式』の「綺原の社」これなりとぞ。祭るところ健伊那大比賣神なり。この里の氏神とす。祭りは九月三日。

     

乗鞍のりくら本宮 中之社 10月7日

古来乗鞍岳主峰・剣ケ峰(3,026m)に本宮が鎮座。1947年乗鞍スカイラインが完成し、1953年畳平の駐車場(2,740m)に遥拝所を創建、中之社としたという。因みに当社は式内社ではない。

綴喜郡・酒屋さかや神社 9月13日

参道は東より南西へ入り右折してこの鳥居と社殿はすべて東南向き。

拝殿。折しもすぐそばの広場では氏子地区であろう興戸の運動会真っ最中。

立派な本殿。「酒屋社(さかやのやしろ) 南興戸民居の西、山上にあり。『延喜式』に載せたる「綴喜郡酒屋神社」これなり。土人生土神とす。例祭九月十一日。」と都名所圖會にある。一昨日お祭りだったのだろうか。

綴喜郡・地祇ちぎ神社(クニツカミノヤシロ とも) 9月13日

観音寺の鎮守だったと記されるそのままに、同寺本堂の真左にこの鳥居が建つ。

石段をあがってお社全景。この後の山中に「心礎跡」の表示があった。観音寺の塔跡という。

覆屋中の本殿は素朴なというか簡素な流造。これしかない。

綴喜郡・佐牙さが 神社 9月13日

拝殿。

本殿2社。国の重要文化財。

22号線に面する一の鳥居。ここから西方100m余で二の鳥居がある。「祭神・佐牙彌豆男神、佐牙彌豆女神とあることからみて、酒造りに関係する神であろう」という。(戸原のトップページから引用した)

綴喜郡・咋岡くいおか神社(飯岡坐) 9月13日

社頭の鳥居。式内咋岡神社の論社の一。

拝殿。

本殿。

咋岡神社社頭風景。右下に見えるのは万葉歌碑「春草を 馬咋山ゆ 越え来なる 雁の使は 宿り過ぐなり」

綴喜郡・咋岡くいおか神社(草内坐) 9月13日

参道が北面する草内坐咋岡神社社頭一の鳥居。中世の城跡という。式内咋岡神社の論社の一。

拝殿。

本殿。社殿はいずれも西面する。

     

御霊ごりょう神社 9月4日

安堵町の街中・富雄川畔にひっそりと坐すお社・御霊神社。式内社ではない。富雄川の水神を祀ったものか。

廣瀬郡・廣瀬ひろせ大社(式内 廣瀬坐和加宇加賣神社) 9月4日

一の鳥居。廣瀬坐和加宇加賣(ひろせにますわかうかめ)神社が延喜式の正名。石碑から“官幣大社”の文字が戦後70年経つのにまだ消えていない。

拝殿。ひっそりと佇む。。と書きたいところだが、平日なのに参拝者が一人、また二人と跡を絶たない。クレーン車まで出して大石燈籠の修復中だった。

本殿。大和名所圖會はこう記す。廣瀬社(ひろせのやしろ) 河合村にあり。祭る所和加宇加命〔延喜式〕。又の御名大忌神〔日本紀〕。此御神は水徳神にして、伊弉諾・伊弉册尊の御子豊宇賀乃賣神なり。これ則神祇官の御食神にてまします。御鎮座は天武天皇四年四月に、龍田・廣瀬両社を祠(いは)ひ給ふ〔日本紀〕。祭は〔日本紀〕には四月朔日と見えたり。是をまつりぬれば、山谷の水變じてあまき水となり、苗稼(あきのみ)うるほひ民にぎはひを得る〔令義解〕。

城下郡・比賣久波ひめくわ神社 9月4日

社頭風景。向かってすぐ右は島の山古墳の周濠に接する。比賣久波神社(ひめくはのじんじゃ) 城下(しきのしも)郡唐院村にあり。今子守社と称す。〔神名帳〕に出づ。

拝殿。比賣久波=姫桑⇒養蚕と考えられている

本殿。春日大社若宮から移築されたという。

堂々と灯籠を従えた一の鳥居。手前に自然石に彫られた社号碑。右の灯籠脇に僅かに見えるのは島之内古墳の端っこ。

城下郡・糸井いとい神社 9月4日

社頭一の鳥居。大和名所圖會にこう記す。糸井神社(いとゐのじんじゃ) 結城市場村にあり。今春日と称す。〔神名帳〕に出づ。 祭神から推して機織集団が斎き祀ったお社と考えられ、比賣久波神社との関連もありそうだ。

拝殿。このお社も寺川の堤防上というべきところに坐す。

本殿。これも春日大社のものを移築したという。多いな、こういうの。

都留伎つるぎ神社 9月4日

都留伎(つるぎ)神社の祠。別に式内社ではないが、説明板によれば この中村垣内地域に尽くして牢死した「鶴木」なる義人を祀ったものという。

     

止々呂美とどろみ神社 8月23日

箕面市上止々呂美に坐す止々呂美神社社頭。再訪。前回は→ここ

廣瀬郡・猪上いがみ神社(またはいかみ・・・) 8月14日

社頭。当社は信貴山朝護孫子寺の鎮守社であったが明治初期の例の措置で大鳥居の外へ移された。

簡素な、見様によっては貧弱なお社で、何故か奈良県神社庁のリストにも見当たらない。

本殿というより祠。猪上神社(ゐのうへじんじゃ) 信貴山にあり。〔神名帳〕に出づ。【大和名所圖會】 意賀美(おかみ・いかみ)との音の共通性から水の神「(おかみ)」とも。

猪上神社旧社地(現朝護孫子寺経蔵堂) 8月14日

当社は 明治までは本堂後ろの石段下、現在経蔵の建つ位置に坐したと伝える。

     

綴喜郡・うち神社 7月20日

内里うちざとに坐す内神社正面鳥居。扁額「内神社」

拝殿

内神社本殿。天正年間に巽方700mの古社地(今も古宮の地名が残る)から移築されたと伝える。平成14年新たに造営

内神社旧本殿。本殿造営時に左奥へ移築されたがそのとき寛保3年(1743年)年の墨書が発見されたという。京都府の文化財

久世郡・石田いわた神社(大将軍) 7月20日

大将軍に坐す石田神社で式内石田神社の論社の一。

拝殿

本殿

社頭のこの社名碑が当社唯一の社名表示。境内のどこにも何も書いてない

久世郡・石田いわた神社(岩田里) 7月20日

岩田里に坐す石田神社正面鳥居。ここも式内石田神社の論社の一。木津川堤防に近く田圃の中に坐す。御霊(ごりょうの)社 (上津屋の巽十町ばかり、岩田村にあり。祭神、御霊八所のその一にして、文太夫の霊神なり。土人、生土神とす。例祭は九月九日。)【都名所圖會拾遺】〔注:新訂都名所圖會索引には茶屋ノ前在と記すが原文の“巽”を信ずれば誤りであろう〕

拝殿

本殿

この灯籠に刻まれた「石田社」という文字が当社唯一の社名表示。新し過ぎ

石田いしだ神社 7月20日

里垣内に坐す石田神社正面鳥居。東面し、木津川対岸堤防上の遥拝碑と東西相対する。因みに対岸の城陽市にも上津屋こうづや地名がある。都名所圖會拾遺に記す。牛頭天王(ごずてんのう)社 (内里のひがし十町ばかり、上津屋村にあり。土人、生土神とす。例祭は九月九日)。」

拝殿。漢字で書くと同じ字「石田」の3社が近接するが、社名呼称や由緒が異なるので当社は式内石田神社ではないという見方が多い

本殿。垣内(かいと又はかいち)は小単位の出耕作地の謂であるところから凡その想像が可能である

都名所圖會・同拾遺には、上記里垣内坐石田(いしだ)神社=当時牛頭天王社=を除く3社の記載がない。