宇治郡・末多武利神社 6月16日 |
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雨の中、宇治川右岸に点在する4社を訪う。まず宇治市宇治又振に坐す末多武利神社。式内社ではなく小さなお社だが、その謂れがすごい。都名所圖會に曰く、 |
宇治郡・宇治神社 6月16日 |
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宇治神社拝所。 |
同じく本殿。 |
さわらびの道を辿るとこの二の鳥居に行き着く。桐原殿から振り返ると朝霧橋のたもとに一の鳥居が望める。 |
宇治郡・宇治上神社 6月16日 |
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さわらびの道に戻り少し行くとすぐこの鳥居。宇治「上」神社とは、宇治川に相対したとき、より背後の山=佛徳山(圖會では朝日山)=に近く、“上”にあったからだろうか。 |
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宇治上神社は世界遺産。この拝殿は国宝。前左右に三角錐形の“清め砂”がある。元々は塩だったのかも。 |
本殿覆屋。本殿はこのなかに3棟ありいずれも国宝。 |
宇治郡・彼方神社 6月16日 |
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京阪電車宇治駅前を左に数十メートル、ささやかな一角に式内彼方神社は坐す。鳥居右奥に見える白い紙には「犬の糞云々/宇治神社」とあった。同社が管理しているらしい。都名所圖會の蜻蛉(かげろう)の石の項には僅かにこう記されている。 (前略)椎が本の社は彼方(おちかた)の町に鎮座し、四阿屋(あづまや)の観音はこの左にあり。(後略) 四阿屋の観音は不詳だが、「彼方の社」は江戸時代、源氏物語関連でしか話題にならなかったのだろう。 |
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社殿。小さな祠。「諏訪大明神」銘の灯籠もあった。 |
その右奥に磐座。古い自然信仰の名残か。ネット調査でも文書資料が殆ど見当らなかった。 |
左は菅生神社神門。「真言律僧これを守る」とある神仏混淆時の雰囲気が残る。和泉街道沿い。中高野街道と富田林街道の中間に位置し南面する。街道を挟んでさらに南側に灯籠や玉垣が散在し、往時の境内の広さを物語る。 右は鳥居と拝殿。 |
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本殿。堺市の指定有形文化財。境内社は稲荷社・余部神社をはじめ6社を数える。普請の跡が結構新しく、地区の崇敬の篤さを物語る。 |
丹比神社二の鳥居。参道東方(撮影者背後後方)300mに一の鳥居がある。つまり当社は東面する。明治末期に次記する櫟本神社を合祀したという。 |
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左は拝殿、右は本殿。中高野街道は当社の背後(西)を通る。現在神社本庁のホームページでも社名を「たんぴ」と記しており、“字の通り”と妙な感心をしてしまう。因みに所在地は堺市美原区多治井。<週刊「日本の神社」第61号に左の拝殿写真掲載:2015.4.14> |
堺市美原区真福寺の故地に坐す櫟本神社の祠。このブロック囲いの内外どこにも社名表示がなかった。この二本の木がなかったらおそらく見つけることが出来なかっただろ。明治末期に前記の丹比神社に合祀されたという。 |
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参道とおぼしき道のドン突き、南方100mに鳥居と「式内櫟本神社 真福寺村」の碑がある。この碑で辛うじて社名が判明した。明治40年12月23日丹比神社に相殿合祀されたというが、この故地に祠がいつつくられて復座となったのだろう。櫟本(いちゐもと)神社 鍬靱。〔延喜式〕出。真福寺村にあり。今、八幡と称し、此地の生土神とす。社頭の傍を櫟本といふ。又、真福寺といふ宮寺あり。(河内名所圖會) 真福寺は戦乱で焼失し地名だけ残る。 |
大津神社拝殿。渡来人・百済国王族の子孫である津氏一族が氏神として建立したとされる。 |
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社頭の鳥居。近鉄高鷲駅南すぐの地にあるが静か。 |
本殿。ぐるりと回ったが、鬱蒼とした社叢がかこんでいて、写真からは存在を捉えることが難しい。 |
神社の参道って一部例外を除き大抵こんなもの。9年前“万葉を歩く”で来たときと殆ど変わっていない。 |
道の上のブドウ畑の畦にヒョコッと乗っかっている、そういうお社。明治末期、壺井八幡に合祀され、戦後ここに戻った。これは拝殿。 |
本殿。一間社檜皮葺の流造りというのだそうな。飛鳥戸神社(あすかべのじんじゃ) 飛鳥村にあり。〔延喜式〕に安宿郡に属す。名神。大。月次新嘗。(中略)今牛頭天王と称す。此所の生土神とす。例祭、九月九日。宮寺を常林寺といふ。行基の開基にして、聖武帝の勅願所と也。今、荒廃に及ぶ。(河内名所圖會)。現在の祭神は素盞烏命だが、これは明治初年の神仏分離のとき変えられたのだという。飛鳥戸造の祖神が祀られていた筈。エグいことをするものです。 |
飛鳥川にかかる月読橋から迷いに迷い、到着したときは息が上がっていた。これは杜本神社拝殿。駒ヶ谷集落北の小山の上に鎮座する。 |
本殿。 |
参道ニの鳥居。杜本神社(もりもとのじんじゃ) 駒ヶ谷金剛輪寺の上方にあり。(中略)〔延喜式〕云、杜本神社二座並名神 大、月次新嘗。(中略)此神社、〔延喜式〕に安宿郡と記せり。諸句邦に郡名違う事多し。これは、中古騒擾の後、国司、領主変易し、または村老迯趨て郡界錯乱す。後世、私に極るもの多し。旧記をもって証とすべし。(後略)(河内名所圖會) |
石川郡・大祁於賀美神社 6月1日 |
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御繁盛の寺院・大黒寺南に隣接する丘の上に鎮座する。立派な石の鳥居が4基石段を飾る。 |
本殿。あっけらかんという形容がぴったり。聞けば明治末期壺井八幡に合祀されたが昭和30年に氏子が大黒寺の土地を借りて再建、復座?したという。 |
大祁於賀美(おをきおかみの)神社 大黒村にあり。〔延喜式〕ニ石川郡に属す。今、山王と称す。此所の生土神とす。例祭、八月廿六日。(河内名所圖會) 「おかみ」は「龗」で水・雨の神。圖會の頃の鎮座地は合祀後民間の手に渡り、土取りのため消失したと伝える。現在氏子での保持が困難となり、地主・大黒寺が管理していると張り紙があった。 |
判りづらいようで判りやすいというのが当社の立地。社叢がないので遠目が利かず、東高野街道沿いなので近付けば否応なしに目に飛び込むという訳である。これは拝殿。 |
本殿。まあ厳重に囲ってあるもの。参拝者は拝殿から拝むものだから、これでいいのか。 |
高屋神社(たかやのじんじゃ) 古市古屋舗邑にあり。〔延喜式〕に出。今、八幡山といふ。蔵王権現祠あり。(河内名所圖會) 祭神が饒速日命というから物部氏の祖神を祀り、のちに北方500mの御陵の主・安閑天皇(広国押武金日命)を併せ祀るようになったという。明治末期ご多分に洩れず合祀旋風のさなか、後述の白鳥神社(伊岐宮)に合祀され、昭和29年に復座。ただし白鳥神社の合祀は今も続いている由。 |
拝殿。すぐ背後が近鉄古市駅。しかし社叢のおかげで雰囲気を保っている。東面し東高野街道に面する。 |
当社も本殿の写真がほとんど撮れなかった。因みに当社は古墳の上に立地するという。 |
伊岐宮(いきのみや) 誉田の南、五町。古市村にあり。日本武尊の霊を祀りて白鳥明神と称す。古は伊岐谷にあり。後世、こゝに勧請す。相殿牛頭天皇、婆利賽女を併祭る。此所の生土神とす。例祭、六月十二日、九月九日。(後略)(河内名所圖會) もともと当社は西方伊岐谷に鎮座していたが兵火に焼かれ、慶長大地震で倒壊し、17世紀中葉現在地に移ったという。高屋神社を明治末期に合祀した経緯は前述した。 |
当宗神社(まさむねのじんじゃ) 並ニ大。月次新嘗。〔延喜式〕出。誉田村の北、王水町。当宗垣内にあり。(後略)(河内名所圖會) 宇多天皇外戚當宗忌寸の祖神を祀り、明治末期誉田八幡に合祀、いま辛うじて境内社としてその名をとどめる。 |
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その誉田八幡大鳥居。 |
同じく拝殿。間口十一間という巨大なもの。いずれも逆光でひどい写真。 |
拝殿拝所から本殿を望む。長野山誉田八幡宮(ながのさんこんだはちまんぐう) 誉田村にあり。僧院十五宇、祝家十三宇、神子五人、勅願所。毎歳、正月十九日、社僧参内、御祈祷の巻数を捧奉る。/本社 祭神、中央、応神天皇、左、仲哀天皇、住吉大神。右、神功皇后、一座神秘。以上五座を併て、誉田八幡宮と称し奉る。(後略)(河内名所圖會) |
道明寺天満宮は式内社ではない。道明尼寺(だうみょうにじ) 土師里にあり。土俗道明寺村といふ。真言律宗。女僧寺職す。/天満宮 御自作現存の神影を祭る。一夜にご製作。世に、荒木は天神と号す。後に覚寿尼公、補作す。(後略)(河内名所圖會) この記述で、江戸中期の道明寺天満宮は、いま東高野街道により分離されているが、道明寺の大きな境内の中にある一社であったことがうかがえる。 |
一の鳥居、と銘打ちたいが、あっけらかンとした境内は若干寒々しい。日当たりはいいのだが。志貴県主神社(しきのあがたぬしのじんじゃ) 国府村にあり。〔延喜式〕出。今、春日神と称す。(河内名所圖會) ちなみにこの地は河内国府の跡という。 |
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拝殿 |
本殿 |
一の鳥居。児童公園を前に控え結構賑やか。 |
拝殿 |
本殿。黒田(くろた)ノ神社 北条村にあり。〔延喜式〕に出。今、天神と称す。此地の生土神也。(河内名所圖會) |
鳥居は南面。拝殿・本殿は西面。(正面は本願寺派誓願寺、左は“おやくっさん”こと常楽寺薬師堂) |
拝殿は完全締め切り。 |
塀の外に見えるこの本殿が僅かに式内社の風格を示す。志疑(しき)ノ神社 大井村にあり。〔延喜式〕に出。今、天王と称す。此地の生土神也。(河内名所圖會) |
栄枯盛衰いろいろあったらしいが少々戦時中の官幣社を思い起こさせる仰々しさが感じられる。伴林氏(はんのはやしうぢの)神社 林村にあり。貞観九年、官社と成。此地の本居神也。(河内名所圖會)。左側の手水舎も垣が廻らされて、建物の立派さはわかっても、引きます。 |
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拝殿 |
本殿 |
長野(ながの)神社 鍫。〔延喜式〕出。葛井寺の側にあり。此所の本居神とす。(河内名所圖會) という江戸時代の記録はともかく、葛井寺西南隅のここが跡地?実は次項辛国神社の神職さんに詳細を聞かなかったらわからなかった。「・・跡地」の標識は一切無い。お寺の信者さん奉納した西国札所の石碑が林立しているだけ。それはそれで物凄いのだが。明治末期に例の「合祀」旋風が吹き荒れた結果で、ここまで徹底したのは珍しい。 |
一の鳥居。この奥にある二の鳥居はここに合祀された長野神社のものだという。 |
本殿 |
辛国神社拝殿。明治末期に隣接する(これも式内)長野神社を合祀した。辛国神社(からくにのじんじゃ) 〔延喜式〕に、志紀郡に載ス。岡村にあり。今、春日と称す。社の北に、辛国の池あり。(後略)(河内名所圖會) 昭和になってから合祀された社を再び旧地に復活する動きが各地にあったが、長野神社はついぞそれが無かったのか、はたまた出来ない何らかの事情があったのか。今となっては知る由もない。 |
柴籬神社の社殿左脇にひっそりと鎮まる田坐神社の祠。碑に「式内 田座神社」とあっても殆ど振り向かれないだろう。田井城の旧社地から明治末期例によって柴籬神社に合祀されたが、昭和60年旧地に遷座(後記)。ということでこの祠はいわば「合祀仮住まい記念碑」みたいなものか。 |
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柴籬神社正面鳥居。“記念碑”だけの「店子」を載せて「家主」を無視するわけにはゆかないだろう。このお社は河内名所圖會の「広庭神祠」の後継社なのか、はたまた・・・・ 広庭神祠(ひろばのやしろ) 松原荘植田村にあり。今、天満宮と称す。近隣六ヶ村の生土神也。例祭、六月十日。(後略)(河内名所圖會) |
同拝殿。柴籬神社は反正天皇丹比柴籬宮跡と伝えられ、同天皇が主祭神。瑞歯別と美称された由緒からか、現在は歯の神様として有名であり、境内の歯神社の前には「歯磨き面」が建てられており、面の歯を指先でなぞれば霊験あらたかとか。 |
田坐神社と呼ばれているが、古記録では「たい」または「た」と呼ばれたという。onmouse-鳥居扁額up |
本殿覆屋。 |
昭和60年“ふるさと戻り”しただけあって、拝殿もキレイだが、ねエ。 |
式内・酒屋神社は屯倉神社の北側に梅園の賑わいも知らぬかのように佇む。酒屋(さかや)神社 三宅村の西にあり。〔延喜式〕出。(中略)今、権現と称す。此所の生土神とす。(河内名所圖會) 明治40年に近くの三宅中6丁目から屯倉神社へ合祀されたと伝える。今回大失敗・・・この故地を知らずして抜かしてしまった。 |
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酒屋神社正面鳥居は梅花に包まれ、社殿は隠されているかのよう。手前右の石碑には「式内 酒屋神社」とある。 |
社殿斜視(笑)。 |
西面する鳥居は三宅の集落を向いているようだ。この鳥居のほぼ延長線上には屯倉神社、ではなくて酒屋神社が鎮座する。けど、扁額には「天満宮」とある。鳥居右下の標柱も「屯倉神社」。やはり“大家”さんなのだ。 |
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ま、そんなこんなで、梅花につつまれた屯倉神社拝殿。 |
同本殿。 |
mutuo0428m9さんのご好意で次の写真3枚をお借りできることになった。記して感謝である。 |
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三宅中6丁目児童公園の東南隅にある「酒倉大神」祠。明治末期酒屋神社が屯倉神社に合祀されるまでここに鎮座していたという。 |
同公園の西南隣・某宗教団体の門前に建つ「酒屋神社跡地の碑」。onmouse-up。 |
「あまみこそ」は「天美の村」という程の意味だと何かで読んだことがある(異論はあるが敢えて載せない)。神社の南に天美の集落があるが、天美は松原市なのに神社は大阪市東住吉区で、大和川を挟んで飛び地となっている。新大和川開鑿との関係は不知。 阿麻美許曾(あまみこその)神社 鍫靭。〔延喜式〕出。南枯木村の南の方、天見丘にあり。土人云、祭神、中牛頭天王、東は春日、西は蛭子。此近隣七ヶ村の本居神なり。むかし、此地に行基大士住給ふとて、其旧跡あり。(河内名所圖會) |
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拝殿。この神社の社叢は見事な大楠数本で、近辺に高層建築がなく川に近いことから遠くからでも確認できる。 |
本殿。阿麻美造という独特の造りだが、金網の向こうでうまく写真にならなかった。ちなみに天美は古くは河内国丹比郡依羅郷と呼ばれたというが、真西1kmというご近所に大依羅神社が鎮座する。 |