伊和都比賣神社拝殿 |
同本殿 |
一の鳥居から沖の八丁岩を望む。その昔はこの岩礁に祠があったが、天和3年(1683年)に浅野長矩が現在の地へ移した。海行く人々の信仰が篤い。この鳥居の扁額はかつての日本海軍・東郷平八郎元帥の揮毫になる。 |
伯太彦神社正面拝所。南面するが正面は玉手山で、参道は北の道から石段を上がる。 「伯太彦(はかたひこの)神社 鍫。〔延喜式〕出。天安二年二月預官社云云。玉手村坂路天王台にあり。安福寺の鎮守とす。今、牛頭天王と称す。玉手の生土神とす。例祭、九月八日。此辺、躑躅多くありて春は艶色をあらはす。故に、躑躅尾社ともいふ。(河内名所圖會)」 |
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神社入口の鳥居。安福寺参道に面する。 |
本殿。 |
伯太姫神社正面鳥居。玉手山南のピークを社叢に西面する。伯太彦神社とは徒歩約20分の位置にある。 「伯太姫(はかたひめ)神社 鍫。〔延喜式〕出。天安二年二月預官社云云。円明村にあり。今、白山権現と称す。(河内名所圖會)」 |
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神社拝殿。 |
本殿。 |
石神社正面鳥居。社叢は170号線からもそれとわかる立派なもの。 |
拝殿 |
本殿。 「石神社(いはのじんじゃ) 〔延喜式〕出。太平寺村にあり。今、熊野と称す。(中略)此地の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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鐸比古鐸比賣神社二の鳥居と拝殿。鳥居の形状が珍しい(唐破風?)。 |
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170号線に面する一の鳥居。 |
本殿 |
漢国神社一の鳥居。 |
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二の鳥居と拝殿。 |
本殿。 |
奈良豆比古神社一の鳥居。この社名標石は鳥居脇の石灯籠(春日社と刻まれている)よりうんと新しく、最近のもの。 |
拝殿はなく、神門と本殿の間にこの舞台がたつ。手前に神鈴がぶら下がっているのでここが拝所か。 |
本殿三座。大和名所圖會には 「春日社(かすがのやしろ) 善城寺の内にありて鎮守とす。祭神天押雲命。左天児屋根命、右八幡宮、共に春日社と称す。[延喜式]神名帳に曰く、奈良豆比古(ならつひこ)神社一座云々。土人生土神とす。例祭九月九日。(後略)」 とあって、この名所圖會刊行時にはほぼ「春日社」とのみ認識されていたことを示す。因みにいま善城寺なる寺院は近在に見当らない。 |
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漢国神社南約200mに坐す率川神社社頭。当社は大神神社の境外摂社で延喜式所載の率川坐大神御子神社と云われる。 「率川祠(いさがわのほこら) 子守町にあり、土人子守社と呼ぶ。[延喜式]に曰く、率川坐大神御子神社三座云々。或記に曰く、第一開化天皇、第二子守明神、第三住吉明神なりとぞ。(後略)(大和名所圖會)」 |
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何の変哲もない当社拝殿。 |
本殿。この天幕が本殿の美麗な佇まいをぶち壊す。 onmouse-up |
右の石灯籠には阿波社とあり、玉垣内の中央に率川阿波神社、左に住吉社、右に春日社が坐す。天文年間戦火で廃絶し、大正年間に至りこの率川神社境内に復建されたと伝える。 |
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率川阿波神社の神祠。いまは場所的に率川神社の境内に場所を借りているが、摂社などではなく、れっきとしたお社である。率川阿波神社(いざがはあはのじんじゃ) 西城戸町にあり。[延喜式]に出づ。(大和名所圖會) |
拝殿。社頭には古事記献上1,300年を記念してか太安万侶さんのゆるきゃら「まろちゃん」が立っている。一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、多社、多坐神社、太社、意富社とも書かれるという。この建物は新しい。 「多神社(おほのじんじゃ) 多村にあり。額は『勲一等正一位多大明神』と書す。凡三十箇村氏神とす。〔神名帳〕〔三代實録〕に出づ。(大和名所圖會)」 |
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鳥居。境内のこの鳥居より東1kmにある東の鳥居が立派。現存しないが西や南北にも鳥居があったという。南に隣接する小杜神社を含めたこの一帯は多遺跡という大きな弥生遺跡の上にある。 |
春日一間流造の本殿。多氏祖先と伝える神八井耳命(綏靖天皇の兄:社名の「みしりつひこ」はこの人という説がある)が主祭神。神武・綏靖天皇と玉依姫都合四柱を併せ祀る。 |
台風で倒壊した社殿は本殿のみ復旧。社叢のみの広大な境内に寂寥感。ただ神を祭るため社殿を常設するのは時代が下がってからの人の都合だ、という説もあり、これはこれでいいのかも。 |
境内東南隅に東面する鳥居。鳥居を移設したと考えるのには無理があり、こちらに参道があったのかも知れない。 |
小杜神社本殿(「樹森神社」「木ノ下神社」とも言う)。南面する。延喜式神名帳には「小社」と書いて「こもり」と呼ばせているという。 「小杜神命神社(こもりのかみのみことのじんじゃ) 多社の巽にあり。今木社(きのしたのやしろ)と称す。〔神名帳〕に出づ。(大和名所圖會)」。 いまは皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社とともに多神社の摂社(若宮というらしい)。 |
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鏡作神社の正面大鳥居。この扁額(onmouse-up)も多神社同様「贈位」が麗々しく掲げられている。たしかに佇まいは威風堂々辺りを払う感あり。 |
拝殿。鳥居や本殿に比べると、(表現が悪いが)少々しょぼい。 |
本殿。春日造三間社流造。みごとなものである。祭神は天照国照彦天火明命、石凝姥命、天糠戸命の三柱。 「鏡作坐天照御魂神社(かゞみつくりにいますあまてらすみむすびのじんじゃ) 八尾村にあり。此邊七箇村の氏神とす。鳥居の内に鏡の池あり。今水乾固す。(後略:大和名所圖會)」 |
岬町深日に坐す国玉神社一の鳥居。小山の上にある深い社叢と長い石段が印象的。「国玉神社(くにたまのしんじゃ) 深日村にあり。延喜式内也。(後略:和泉名所圖會)」 |
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拝殿。 |
本殿。 |
波太神社一の鳥居。長い参道が印象的。 |
本殿。 |
当社は阪南市石田の在、大きな溜池の傍に坐す。鳥取ノ荘の主だった鳥取部の氏神・鳥取神社が境内に鎮座してござるが、もとは逆だったのではないか? それはともかく、地域の崇敬の篤さが窺われる見事な社殿。春日大社を思わせる。「波太宮(はたのみや) 石田村の南にあり。八幡宮 相殿に鎮坐す。鳥取郷の惣社也。波太社は、鳥取氏の祖神、角凝命也。末社に天湯河板挙の社あり。八幡宮は、むかし、神功皇后、新羅を征して、凱陣し給ふ時、務古水門より紀伊国に詣、御舩を鳥取の玉津に繋ぐ。武内宿禰、皇子を懐て海岸に遊ふ。後、其地に社を建て祭る。今、貝掛邑指出杜、其地也。中頃、波太八幡の両社を南山の下に遷して、相殿に併せ祭る。神宮寺を神光寺といふ。行教和尚の開基也。波太神社、延喜式内に入。(和泉名所圖會)」。 蛇足ながら、「鳥取」は鳥取県ではない。阪南市内に「鳥取」という地名があり、南海電車に「鳥取ノ荘」という駅がある。 |
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男神社本殿。とにかく社叢が見事。大阪緑の百選にも指定され、府下最大とされるムクロジの大木もある。「オトコ神社」と読んでいた(汗)が、正しくは「オノ神社」。。 「男杜(おのもり)大明神 同荘(信達荘:編者注)男里の東南にあり。祭神、神武天皇。〔延喜式〕に男神社二座。今、浜天神と称するは五瀬命也。男水門の社と同神也。後世、八幡、春日を併祭る。此所の生土神とす。(後略:和泉名所圖會)」 (詳細こちら) |
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拝殿。 |
一の鳥居。二の鳥居は新しく、神明造だった。 |
茅淳神社拝殿。手前から案内板が林立。事ほど左様に見付け辛い。そこそこの社叢もあるのに。 |
本殿。別棟でなく、覆屋もなく、拝殿の奥に鎮座。因みに当社は式内社ではない。 |
茅淳神社正面。和泉名所圖會には明確な記載がない。衣通姫伝承がらみで次の記述があるのみ。「衣通姫旧蹟(そとをりひめのきうせき) 上ノ郷中村にあり。土人、衣通姫の手習所といふ。五十年前、小社あり。社の傍に池あり。封境、方一町許。毎歳正月、七月、燈明を挑ぐ。近来壊て糞田とし、小社も亦、泯滅して、所の惣墓とす。嘆息するに堪たり。今、纔に小池を遺す。池の傍に、柿の木一株を栽たり。(後略)」 |