♣ 独 行 “河内の大和川以北完結” ♣
ㅤ大和川以北、と、取り敢えず限った大阪の式内社巡りは今日のコースで一区切り。中河内を歩き出してから思ったのは、“河内は広い”。そして所謂“河内潟”のかつての存在とそれによって人々が受けた利益と蒙った災難の数々が、あちこちに点在する式内社に浮き彫りにされていることだ。式内社の詳細は→こちらに譲り、ここでは道行きこぼれ話と、書きもらしたことを中心にする。 ㅤコース : JRおおさか東線高井田中央駅→川俣神社→長田神社→天神社→布施夷神社→(地下鉄千日前線小路駅→南巽駅)→横野神社跡地→地下鉄千日前線北巽駅 ㅤ高井田中央駅を下りて地中央高速沿いに東へ。途中北に折れてしばらくゆくと、直感数メートルがとこ道路が橋に向かってせり上がっている。橋(川俣大橋)の上から見て吃驚。両側の街並みがこの第二寝屋川の水面とほぼ“ツラ一”なのだ。この写真は橋を降りて川俣神社の傍まで来てから撮った。神社の位置が変わっていないとすれば、こんな立派な堤防が無かった時代、僅かな微高地を選んで人の暮らしの営みがあったことに思いを馳せた。 ㅤ川俣神社境内には石柵で囲まれて椿の木が紅白2本。「神椿」という碑がたっていた。何の変哲もない社殿の前にあってつつましくいくつかの花をつけていた。 ㅤ川俣神社を出て第二寝屋川沿いに南下。道なりに緩い左カーブが、それこそ流路なりについていている。途中数ヵ所あった信号を通過して自然に長田神社へ着く。この写真は途中で振り返って撮ったので、右カーブとして写っている。 ㅤ長田神社。式内意支部神社だったというがそれはともかく、この鳥居。緑の重そうな注連縄を下げ、笠木には屋根までついている。石造鳥居の多い中で木造で(補強の)輪ッカまでついているのは珍しい。 ㅤ長田神社鳥居前数メートルに一乗寺という融通念仏宗の寺院があるが、その門前に長田神社境内に一対あるのと同じ「おかげ燈籠」が一基据わっている。長田の村内にこの種の燈籠が5基あると社頭標示板にあった。といいうことはここに3基固まっているということだ。江戸末期の「ええじゃないか」ブームに思いを馳せる。 ㅤ長田から西方へ橋を渡ると、御厨に坐す天神社に行き当たる。これも前者と同じく意支部社後裔を誇称するが定かでない。それはともかく、境内には見所が多い。江戸時代の銘をもつ燈籠がいくつかあるほか、市指定の大楠が遠目にそれと知れる神社の所在を教えてくれる。 ㅤ長田社、天神社共に意支部社後裔を誇称するが不思議に金石文が見当らない。唯一天神社境内にあったものがこれ。加藤某の顕彰碑前に「意岐部村」と言う字を見つけた。如何せん新しくて後世付会丸見え也。 ㅤ天神社を後にして近鉄線沿いに布施駅方向へ歩く、と、河内永和駅北方にお社。(見つかり方にデジャビュがあって、何かヤーな予感はした)鳥居をくぐるとその感は強まる。しかし鴨高田神社という名前にもうひとつ馴染みがない、と思い込んで(思い込みって怖い)写真を一式撮る。 ㅤ布施駅を南へ通り抜けると賑やかな商店街。ややあってアーケードに「→布施夷神社」の表示幕。数十メートルで南面する「布施のエベッサン」にゆきあたる。ここは性格がはっきりしており、往時都留彌神社社地だったものが西方900m荒田の地に遷座。跡地に「エベッサン」が勧請された。ここは今あくまで夷神社で、都留彌社の御旅所の祠が並んでいて僅かに往時を偲ばせる。写真は夷神社本殿。 ㅤ当初予定はここでおしまいだった。が、東大阪市内式内社の“落穂”を精査の結果、ひとつだけ「横野神社跡地」が残っていることが判明。それがまあ一つだけポツンと。よくよく考えれば、このお社が合祀された先・巽神社→こちらを訪れたとき南巽駅を利用している。少し足を伸ばせばこの跡地にも届いたものを。。。というのは今思うことであって、そのときは住道矢田から平野を通ってここまで歩き、「終点」にしてしまった結果。ま、許してやってツカァサイ。 ㅤということで、南巽駅から一路西へ。念仏堂、圓徳寺、平野川の分水路を越えて朝鮮学園の近くでこの跡地に巡り合った。小さい会社ビルの片隅を切り取った形で柵囲いのなかに「式内横野神社旧跡」の碑が建つ。右脇にはもうひとつ小さな旧跡表示碑、そして右側には犬養孝先生揮毫の万葉歌碑 ㅤここから東北に斜行し、地下鉄千日前線北巽駅まで歩いて、9km余のウォーキングは終了した。日和がよく、やや汗ばむ陽気でラッキー。
色分けは旧郡名順=交野郡、茨田郡、讃良郡、河内郡、若江郡、澁川郡 |