佐麻多度神社正面。南面する。服部川駅を降りて山側へ気楽に歩き出したはいいが、一本道を間違えると怖い。気が付いたら法浄霊園まできていた。お前高安山に登るんか、いや違う違う、と、地図を見直して一本向こうへ下りてようやく行き当たる。標高差約70mのロス。「佐麻多度(さまたと)神社 山畑村にあり。〔延喜式〕出。(中略)此里の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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拝殿 |
本殿 |
佐麻多度神社境内向かって右側にささやかに天満宮と並んでいたのが山畑神社。これが式内社・高安郡・春日部社坐御子神社だという。「春日戸社坐御子神社(かすかべのやしろにいますみこのじんじゃ) 〔延喜式〕神名帳、河内国高安郡の部下に出たり。(中略)今、鎮座所さだかならず。(河内名所圖會)」 |
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高安郡・玉祖神社 10月11日 |
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玉祖神社正面。 いやはや迷いました。先ず最初は御祖神社跡地を大窪在に探したがわからず、おまけに玉祖神社より先に行こうとしていた都夫久美神社もわからなくなり、気がついたら愛宕塚の前。遠く山腹に太鼓台小屋らしき建物が見えたので方針変更。あれこそ玉祖神社と心定めて登りにかかる。参道石段下に到着した時は汗ぐっしょりであった。「玉祖(たまそ)神社 神立村にあり。〔延喜式〕に出。近村十一箇村の生土神也。例祭、九月十日。〔社記〕云、和銅三年の鎮座なり。(後略)/御祖(みおや)神社 大窪村にあり。〔延喜式〕出。(中略)此所の生土神とす。/鴨(かもの)神社 大竹村にあり。鴨森といふ。〔延喜式〕出。此所の生土神とす。(河内名所圖會)」。境内は山腹西向きだがお社は南面する。 |
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拝殿。因みにここの在所は神立。 |
本殿。合祀した二社は圖會の時代にはそれぞれ御祖神社は大窪、鴨神社は大竹の在にあったことが知れる。 |
都夫久美神社。いや、懐かしい。不覚にも引っくり返った2003年5月に生駒縦走ハイキングの最後に寄ったお社。名所圖會にもなかったということは長らく祭祀が途絶えていた証左。香森大明神の名で玉祖神社に合祀せられていたものを昭和48年に旧社地である当地に再建したという。紀元二千六百年記念の社名碑(右)が異様に目立つ。さほどに拝殿・本殿が一緒になった社殿(左)は小さくささやか。 |
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大賀世神社の正面鳥居。式内社でないが、妙に気になった。社頭の碑によれば奈良の龍田大社を勧請したものだという。風の神である「しなつひこ」「しなつひめ」、どこかで聞いたなア。そう、葛城古道のはずれにもあった。風の森神社。ここは字大風。「おおがせ」は「おおかぜ=大風」の転訛かな?それにしてもこの新しい鳥居、バランスが悪くないですか?背が高すぎる。 |
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拝殿。この神社は古墳の上にある。結構こういうのが多い。今日最後の瓢箪山もそう。 |
本殿(覆屋内)。古墳ってその時代の地域豪族の墓というのに、その上に埋葬者とは異なる祭神を祀った時代は相当下ると見なければならないのではないか。 |
梶無神社は東高野街道から東へ入ったところに正面を西に向けて坐す。社名は神武東征にまつわる伝説があり、事ほど左様に判らなくなっているということである。百歩譲ってそれを認めても、往時この辺が河内潟の水辺であったことの証左にはなろう。「梶無(かぢなし)神社 鍫。〔延喜式〕出。六万寺村の属邑桜井にあり。今、舩山明神と称す。社の北に梶無といふ地名あり。(河内名所圖會)」 |
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拝殿 |
本殿 |
近鉄瓢箪山駅南すぐ東入るに坐す瓢箪山稲荷神社。日本三稲荷の一といわれているが、豊臣秀吉が大阪城築城に際して伏見から勧請したといわれ、歴史はさほど古くない。河内名所圖會には全く記載がない。江戸時代の“名所”の範疇には入らなかったのだろう。辻占の総本社といわれ、この近く東高野街道では辻占が行われていたものの、当社が扱うようになったのは明治初年。それ以降当社の名が広まったとか。因みに当社では単に「瓢山」と表記する。 |
彌刀神社は近鉄弥刀駅と長瀬駅のほぼ中間に位置し西面する。旧大和川の跡といわれる長瀬川が西方500mに曲流し、その水辺(水門=ミト)の微高地に祀られた。在所は近江堂(オウミドウ)というが大水門が転じたものらしい。「弥刀(みと)神社 近江堂村にあり。〔延喜式〕出。今、天王と称す。此地の生土神也。(河内名所圖會)」。 |
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拝殿 |
本殿 |
本殿を囲む玉垣の内側に本殿と並んで祀られる八坂神社(左が本殿)。 |
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式内社・波牟許曽神社一の鳥居は神明鳥居(伊勢鳥居)。明治40年に長瀬神社が作られ(!)合祀されたという。 |
二の鳥居は明神鳥居、奥に拝殿。大正3年に長瀬神社から分祀して、松だけ残っていたこの旧地に復したという。 |
波牟許曽神社本殿。長瀬駅西150mに南面して坐す。見るからに古色豊かだが新しい建物である。高床の稲倉を思わせる建物。千木の切り方は主祭神が天照太神ということに依るか。「ハム」は蛇、「コソ」は社。旧住所表示は渋川郡北蛇草村字ケというのだそうでこれまた珍しい。 |
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都留彌神社正面。近鉄大阪線・奈良線とJRおおさか東線によって限られた三角地帯のなか、東大阪市荒川3に南面して坐す。社名は水鳥の交尾(つるぶ=つるむ)起源かという。先般訪れた若江郡在の都留美島神社と良く似ているが水辺という立地の類似か。境内は広く、見るからに立派なお社。「都留弥(とるみの)神社 足代村にあり。〔延喜式〕出。今、天神と称す。此地の生土神とす。当地の名産、籃笠世に名高し。莎草をもってこれを作る。(河内名所圖會)」。 |
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拝殿。ㅤ都留彌神社は上記名所圖會の頃までは足代にあったが、明治18年の洪水で烏有に帰した。 |
本殿。ㅤ明治40年当地(鹿島神社)に遷座して現在に至る。元社地は布施戎神社となり、都留彌神社故地の碑が残る。 |
昭和12年に境内西北に据えられた「布施耕地整理竣功記念碑」。時恰も布施市発足の年。因みに布施市は昭和42年河内・枚岡両市と合併して東大阪市になった。 |
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拝殿 |
本殿 |
鴨高田神社。河内永和駅北100mに南面する。今日巡った4社のなかで一番社叢が濃い。北に隣接して長栄寺。後記名所圖會には同寺の鎮守とあるがはっきりしないらしい。「鴨高田神社(かもたかたじんじゃ) 高井田長栄寺の鎮守とす。今、八幡と称して、此村の生土神なり。〔延喜式〕出。例祭、九月十五日。此寺、年久しく廃寺と成しを、寛延年中、葛城慈雲和上の建立なり。(河内名所圖會)」。 |
弓削神社正面鳥居と拝殿。JR志紀駅南5分。外環状と府道25号線とJRが立体交差する、非常にややこしい場所に鎮座まします。「弓削(ゆげ)神社一座 〔延喜式〕曰、大。月次相嘗新嘗。(中略)東弓削村にあり。此所の本居神とす(河内名所圖會)」。 |
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拝殿 |
本殿 |
“河内大社”弓削神社正面。河内名所圖會には前述のとおり「東弓削村」とあるので、延喜式所載の「一座」はこちらのようだが、旧社地はもっと東の古宮だったという伝承がある。加えて旧大和川の氾濫で東西に再建されたという見方もある。かつての万葉を歩く講座のK先生説「大和川水運権を握っていた」は「両岸から喉許を・・」という意味からは眉唾かも知れない。なおこちらには末社・摂社の類は一切無く、現在無住。 |
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拝殿 |
本殿 |
都留美嶌神社。ここを含め付近にいくつかの古墳があったとの伝承があるが定かではない。すぐ西は一段下がったたんぼ(田圃)で神社の裏を通る道路が水田地帯と住居地域の境界だったのか。「都留美島(とるみしま)神社 鍫。〔延喜式〕出。都塚村都塚の上にあり。此地の生土神とす。(河内名所圖會)」。 |
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拝殿 |
本殿 |
八王子神社正面。八尾市教育委員会の建てた境内の説明碑には「式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている」と書かれている。「常世岐姫(とこよきひめ)神社 〔延喜式〕出。神宮寺村にあり。今、八王子と称す。(中略)此地の生土神とす(河内名所圖會)」。 |
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拝殿 |
本殿 |
恩智神社拝殿。新しいせいもあってか清々しい感じ。河内二ノ宮(一ノ宮は枚岡神社)というに相応しい貫禄を感じる。河内名所圖會にこう記す。「恩智神社(をんぢのじんじゃ)二座 〔延喜式〕曰、名神。大。月次相嘗新嘗。恩智山にあり。恩智神宮寺村等の生土神とす。例祭六月廿七日、十一月卯辰の日。〔文徳實録〕云、嘉祥三年冬十月、恩智大御食津彦命 恩智大御食津姫命授正三位勲六等。(後略)」。 |
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本殿二座。手前は大御食津彦命、向かって左は大御食津姫命を祀る。この本殿の形式は杭全神社と似ている。 |
参道入口。ここから比高50mの長い石段がある(127段)。撮影位置は本来鳥居のある場所だが、ない。実は参道を東高野街道まで1km下ると鳥居があるらしいが、このお社は境内にも鳥居がなかった。 |
参道入口の一の鳥居。ここから比高60mのコンクリートの参道は疲れた足に厳しいものであった。ちなみに鳥居扁額が「岩戸神社」で社名石標が「式内天照大神社」。onmouse-up |
拝殿の上部、巌壁に貼り付いた「本殿」。古い信仰の姿がありあり。巨岩がご神体なのだ。 |
天照大神高座神社。「「天照大神高座神社(あまてらすおゝんがみたかみくらのじんじゃ) 〔延喜式〕曰、月次新嘗。元、春日戸神社と号す。教興寺村東の山窟にありしが、今、弁財天と称して、教興寺の堂内に安す。神像あり。弘法大師の作といふ。長七寸。例祭、六月七日。此所の生土神とす。旧跡は山腹にして、巨巌巍々たり。一箇の岩窟を神殿として、前に扉鳥居あり。頗、天岩戸ともいふべき岩窟なり。まことに神代よりのすがたなるべし。(後略:河内名所圖會)」。この記述は仏教色濃い(後述)岩戸神社と混淆していた時代の産物。鳥居は天照大神が祭神ということでか、神明鳥居。ついでながら右奥には修行の滝があり、左白壁の建物の脇を手前へ抜けると下記岩戸神社の拝殿に出る。要は同じ境内だったのだし、今も変わらない。 |
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岩戸神社鳥居。これは明神鳥居だ。 |
岩戸神社拝殿。ここも拝殿の奥が岩壁で岩穴(天の岩戸)があるという。弁財天を祀るというが、その像は近くの教興寺にあるとのことでああややこしい。 |
八尾市木の本1丁目所在で正面は東を向き、旧大阪中央環状線から参道が延びる。三座ある樟本神社の中心とされる。鳥居はここのみ朱塗りで両部鳥居。楠の巨木が多い。南南東150mに物部の稲城伝承のある光蓮寺(真宗)がある。 |
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拝殿と八尾市保全樹木に指定されている大楠 |
本殿(南木の本坐神社と酷似) |
八尾市南木の本7丁目所在で、木の本所在の樟本神社と200mも離れていない。何故か正面は南南西に向いている。「樟本(くすもとの)神社 鍫靭。〔延喜式〕に、志紀郡に載ス。南木本村にあり。布都明神と称して、物部守屋の霊を祭るとぞ。(後略:河内名所圖會)」 境内右手は日羅上人伝承のある日羅寺(黄檗宗) |
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拝殿と狛犬 |
本殿(木の本坐神社と酷似) |
八尾市北木の本5丁目、旧大阪中央環状線に沿う。所在で一部の地図からは無視?されているほど小さい。境内に守屋首洗池がある。南木の本の樟本神社北方700m、物部守屋墓南方500m。 |
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拝殿 |
本殿 |
澁川神社はJR八尾駅南東200m。元来旧大和川の対岸に鎮座していたが、16世紀大洪水で流されて現在の位置に改めて祭られたという。場所柄としては比較的広い境内をもち、いくつかの摂社が祀られ、楠の巨木が数本聳える。「澁川(しぶかは)神社二座 植松村にあり。〔延喜式〕に若江郡に出。今、天神と称して、此所の本居神とす。(河内名所圖會)」。 |
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拝殿 |
本殿 |
六甲八幡神社拝殿。阪急六甲駅南に隣接する。結構な鎮守の杜が参道に沿って伸びる。 |
同社本殿。奈良春日大社の社殿を移築したものと伝える。 |
同社摂社の厄神宮。三間社流造のこの本殿はもと八幡神社の本殿だったという。 |
舘山寺に坐す愛宕神社。左は一の鳥居。右は本殿。ここに上がると舘山寺本堂と同一平面にあり、仕切りも無く、かつては・・と思わせる配置。遠州は秋葉三尺坊大権現信仰の盛んな地であり、当社は17世紀初頭曹洞宗に帰属したと伝えられる。舘山寺が曹洞宗で秋葉寺の末寺であることから明治の神仏分離までは同一だったのだろう。 |
「離宮」は嵯峨天皇離宮跡に建てられたから。「八幡」は淀川を挟んで対岸の石清水八幡宮が鎮座以前にここに坐したという伝承から、らしい。油の神様としてのみの知識しかなく、いままで山崎駅を乗り降りしても(直ぐ前にあるのに)足を踏み入れたことがなかった。今回初めて。西国街道がこのお社を迂回している。が、どうやら自動車の無い時代は鳥居前を通っていたのではなかろうか? |
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南西隅の神門。南正面に入口がなく、JR駅南すぐにある東門とこれだけ。 |
離宮八幡宮拝殿。鎮座時の神官が搾油器を発明し荏胡麻油の製油が起こったところから日本製油発祥の地と伝えられる。 |
「本邦製油発祥地」碑。燈籠寄進名が「石清水八幡宮」だった。 |
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関大明神社。Google Mapには「関戸明神」とある。Net上でもごちゃごちゃだが下がっていた提灯優先でこう記した。東に隣接する離宮八幡との間を西国街道が通る。 |
祠のそばにこの石碑「従是東山城國」。つまりここは攝津國の東端で、関所があったことを窺わせる。 |
椎尾神社一の鳥居。サントリー山崎蒸留所の奥にあり、JR踏切からも見える。 |
二の鳥居から拝殿方面。ここは僧行基の草創になる西観音寺だったが、明治の神仏分離で寺は四散し、神社は村社となったものの衰微した。 |
拝殿。1924年サントリーが蒸留所を作ったとき、地元と語らって生土神として整備。祭礼も工場竣工日と同じ日だという。 |
本殿は覆屋内。ちなみに拝殿は京都のお社によく見られる“舞台”である。 |
延喜式神名帳に「貴布禰神社 名神大 月次新嘗」と記され、貴布禰総本宮として全国450にのぼる同系社の“元締”。写真は拝殿。水占と称して白紙を水に浮かべると文字が浮かび出るおみくじが有名。 都名所圖會にはこう記す。「貴布禰(きぶね)社 は水神罔象女の神なり。それ伊弉諾尊、軻遇突智をきりて三段とし、そのひとつを高龗(たかおかみ)とぞ申しける。この垂迹はやまとの丹生社と同体なり。皆竜徳の降迹にして、いまも雨を請ひ、雨を止むることを祈るにはこの二神なり。(後略)」 |
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当社は絵馬発祥の伝承から境内に馬の像がある。左拝殿、右が本殿。 |
一の鳥居。ここから春日灯篭のならぶ参道石段をのぼってゆく。 |
またの名を結社(決して“ケッシャ”ではない)といい、和泉式部の歌碑がある。♪もの思へば澤のほたるもわか身よりあくがれいづる魂かとぞ見る♪ |
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鬱蒼とした樹立ちは貴船神社発祥地の名残か。広い境内。本殿の前に舞台がある。 |
舞台のうしろに本殿。洪水で流され、明治になるまで上賀茂神社の摂社の位置にあったという。 |
奥宮の神門。 |
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勢龍天満宮。芹生集落の落合から200m遡った地にある。神橋の欄干に「寺子屋跡」とあるが、これは歌舞伎の有名な話が現実化し、ドラマ上の寺子屋があったとされる場所に学問の神さま・天神さんを勧請したものらしい。祠は明治になってからできたものだが、過疎の今、虚実取り混ぜて霞の彼方へ消えつつある。 |
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集落北端にある小学校分教場跡の片隅に鳥居を伴った小さなお社がある。確認しようとしたが、立入禁止で果たせなかった。これが芹生の鎮守さんだったのではないか。 |
再建成った吉志部神社。本殿覆屋幅がやや広くなっているが、“七間社流造”はみごとに再現された。 不思議なことに、攝津名所圖會には一切記載がない。歴史あるお社なのに。これは式内社でないことと共通点があるのかな? |
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焼失(2008年)前の吉志部神社。狛犬が見えるが、これは拝殿の後(本殿とのあいだ)に移された。 |
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旧街道沿いの燈籠。寛延三年(1750)の銘がある。奥に見える一の鳥居はもとこの燈籠のそばにあった。 |
正面の二の鳥居。 |
本殿覆屋。 |
社叢「紫金山公園」から望む。 |
お多賀さんとして親しまれる、多賀大社拝殿。 延喜式神名帳では、当社は「近江国犬上郡多何神社二座」と記載され、小社に列している。「二座」とあることから、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたことが分かる。(Wikipedia引用) |
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正面鳥居。 |
鳥居奥の太鼓橋。通称太閤橋。 |
当社は災難続きで17世紀中三度も火災に遭っているが、幕府の手厚い保護で度毎に再建されたという。 杓子が縁起物であり、ここでは「お玉杓子」は「お多賀杓子」が語源だというこじつけめいた説もあるそうな。 |
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多賀大社境内末社・日向神社。延喜式内社であり、瓊瓊杵尊を祀る。 |
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鳥居越しに日向神社境内を望む。 |
本殿。 |
多賀大社前駅(お社まで10分もかかるンじゃ全然“前”じゃねえじゃネーカという突っ込みサイトを見かけた)の「前」に聳える石造大鳥居。ここでしばらく足止めを食った。道路に跳ねる驟雨をご覧いただけるだろうか。 |