大浦と神ノ島、そして浦上  2017年10月9日

♣ きょうだい旅行“長崎くんちと上五島の教会巡り” 3日目 ♣

     

今日の市内観光はレンタカーと聞いて内心小躍りしたあたり齢はとりたくないもの。でも今日のコースを公共交通機関と徒歩だと一体何日かかるんだろう。。。瓦解したままの浦上天主堂跡を演奏旅行で訪うたのは1956年春だった。

(レンタカー)宿舎→唐人屋敷跡→福砂屋→大浦天主堂→グラバー園→長崎伝統芸能館→(ながさき女神大橋)→神ノ島教会→浦上教会→平和公園→如己堂→日本二十六聖人記念館→稲佐山(落日と夜景)→宿舎

大浦界隈

「唐人屋敷跡」門。唐人屋敷は出島などと略おなじ趣旨で元禄2年につくられ、それまで各所に散在していた唐人たちはすべてこの中に収容されたという。

唐人たちの要請が容れられ、元禄4年につくられた「土神堂」。

同じく「天后堂」。元文元年創建。

天后堂内の祭壇。

同じく「観音堂」。伝元文2年造。ただし3祠いずれも焼失後再建されたもの。今は市指定文化財になっている。

「唐人屋敷跡」門の裏側。

途中にカステラの「福砂屋」本店。長崎カステラの元祖だと演奏旅行のとき聞かされた。

大浦天主堂。正式名は「日本二十六聖殉教者堂」(なかなか憶えられない)。国宝。「カトリック大浦教会」はこの建物の裏手にある。昔の記憶では純白のイメージだったのに少々がっかり。でも五島で教会堂の外壁洗浄に苦心する信者さんの話を聞いて考えが変わった。乃公の考え方は教会堂を「観光対象」としか捉えていないのだと。

レリーフは「キリスト信者発見百周年記念碑」。信者発見は1865年のことであったという。

記念写真を撮って頂いたヤングママ、旦那や子供さんを放っ散らかして熱心に5枚も撮って頂きアリガトさん。

天主堂の山際に咲いていたツバキ。椿は長崎県の県花だという。五島のテーマとなっている椿とは種類が違うみたいだが。

それはともかく、ぐるりと回ってグラバー園に入ったらこりゃどうじゃ。この動く歩道をはじめとしてエスカレーターもそこここに。

左は旧ウォーカー住宅、右はグラバー邸がモデルとも言われるオペラ「蝶々夫人」の主役を演じた三浦環像と作曲者プッチーニの像。よく考えてみると、昔「グラバー邸」っていったらそれしかなかったのではないか。あったのかもしれないが、こんなに広くなかった。思うに周辺を取り込み、歴史的建造物を移築して公園化し、その費用償却のツールとして移動手段を機械化したのではないか。穿ち過ぎかもしれないが。

園から眼下に見えた大きなクルーズ船「Ovation of the Seas」。全長348m、16万9千t。

旧リンガー住宅

旧オルト住宅。結婚式がリアルタイムで前庭で行われており、ヤマ場もしっかり野次馬してきた。

旧グラバー住宅(って言うらしい)。昔はこれだけがターゲットだった。

グラバー邸(やはりこれでゆこう)近くにハートストーンが二つあって、両方見つけたら幸せになれる、と。偶然一つ見つけて写真を撮ったはいいが、それで終わってしまった。早い話その話をその時知らなかったのである。知らないということは強い。強くないか

グラバー園の出口に繋がる伝統芸能館にはくんちの山車がいくつか展示されていた。これは雌雄仔三体揃いの龍、但し町名不明。

神ノ島界隈  

大浦からさらに南へ。市の南のはずれから対岸へ高く連なるながさき女神大橋は まさしく長崎湾口を彩るティアラ。

神ノ島突端の岩礁上にマリア像。沖を見つめる。
 この岩の上には鳥居と小さな祠があるが、それが元々のものかも知れない。

カトリック神ノ島教会。この在は今は埋め立てられて長崎と地続きだが、1960年までは長崎湾頭に浮かぶ離れ小島であったという。

特徴的なコウモリ工法の天井が美しい。

キリシタン迫害伝説の高鉾島を背に教会創設時功績のあった信者二人の遺骨が葬られている。

教会堂の塔。奥はルルドの聖母マリア像。

浦上界隈  

神ノ島をあとに三菱のドックのそばを通っていざ浦上の丘へ。「見えてきた!」

教会脇の川への斜面に残されている旧教会堂の鐘楼の残骸。

Sample

浦上天主堂こと 「カトリック浦上うらかみ教会」。建物・信者数ともに日本最大級の教会。1945年原爆投下で破壊され、1956年春演奏旅行で訪れた時は木造聖堂だった(onmouse→UP)。1959年に再建されたのが現在の聖堂でカトリック長崎大司教区の司教座聖堂。

新しいものより60年前に訪れた時に既にあった被爆聖像に眼が行く。聖堂やその周辺はあまりにもきれいになり過ぎて、72年前にここでいったい何があったのかが想像だに出来ない。

Sample

そして西へ500m平和公園。平和記念像など報道され過ぎて見飽きたという勿れ。ここは刑務所(支所)の跡地で受刑者は勿論職員等全員即死だったたという。

右手=原爆の脅威を、左手=平和を表し、閉じた目=原爆犠牲者の冥福を祈る という。

南に隣接する爆心地公園の原爆落下中心碑

公園の片隅にある旧浦上天主堂遺壁

「この子を残して」などで有名な永井隆博士の旧居「如己堂にょこどう」。白血病の身を養いつつ2人の子とこの2畳の家で暮らし、43歳の若さで逝ったというあまりにも象徴的な。。

日本二十六聖人記念碑。向こうに双塔がそびえるのは同じく二十六聖人を記念した聖フィリッポ西坂教会。何あろう、ここは二十六聖人が殉教(1597年)した地・西坂なのだ。

さ、急ごう。落日見物に間に合わなくなってしまうではないか。行く先は言わずと知れた観光スポット・稲佐山(333m)展望台。ここはグリーの演奏旅行のときでも県人会の好意で連れてきてもらった記憶。

稲佐山  

西方の角力灘に落ちる夕日。

東側はと見れば長崎の市街。まもなく灯火が闇に浮かぶ筈である。今まだ午後5時47分。

まもなく落日。。 あの向こうに五島列島がある。明日は向こうに居る。

そしてこれが日本三大夜景の一つ「稲佐山から見る長崎市の夜景」。上記から31分後。

↑展望台に集まった観光客(別名物好きとも嬉しがりともいう)。人口密度は見下ろしている長崎の街よりはるかに多いに違いない。(因みに長崎市の人口密度は1,040人/km2
 右の写真は下山後立ち寄った旧山王神社二の鳥居(原爆の爆風で半分吹き飛ばされたまゝ)↑

覚悟はしていたというものの、長崎市内観光は“ええとこどり”でも日が暮れてしまうことが今日一日の纏めをしていてよくよく理解できた。だんだんテーマがぼやけてきて、数時間前の行動が頭の中で行方不明状態に。とまれこれだけのプランを考えてくれたFY氏には感謝というよりも尊敬してしまう。現地では運転手そして会計係をこなしているなんて、乃公次元では人間業でない。