射楯兵主神社は「播磨国総社」とも呼ばれ、「そうしゃさん」が通称だという。これは正面鳥居。 |
神門。9時半という時間だったが、ちょうど何らかの神事の最中。「どうぞお参り下さい」と通してもらった。 |
射楯兵主神社拝殿。姫路城の中曲輪内に鎮座する式内社。播磨國風土記に曰く、「因達の里 土は中の中なり。 右、因達と稱ふは、息長帯比賣命、韓国を平けむと欲して、渡りましし時、御船前に御しし伊太代の神、此處に在す。故、神のみ名に因りて、里の名と爲す。」云々 とあるが詳細不明。 |
|
本殿覆屋。角度で見難かったが2棟の軒?が並んで見えた。総社という通り摂社が多い。 |
境内西方100mほどにある総社御門。2006年に再建された。これは西面する。 |
積川神社二の鳥居は両部鳥居。 |
拝殿。当社は西に向かって鎮座する。 |
本殿は国の重要文化財 (旧国宝)。和泉名所圖會には 「積川神社(つかわのじんじゃ)五座 積川村にあり。延喜式内也。淳和帝弘仁十四年七月、祈雨の奉幣使を立らる。〔三代実録〕曰、清和帝貞観六年三月、従四位上を授くと云々。」 とあり、所在を“泉南郡”とする。 |
|
山直神社鳥居。扁額には「山直太田総社」とある。社叢は岸和田市指定天然記念物。 和泉名所圖會には何故か記載が見当たらないが、波多神社が合祀されてここにあった=むしろこの地に坐したのは波多神社だった=とする記述についてはこちら参照。 |
|
拝殿。当社は南面する。 |
本殿は大阪府指定有形文化財。 |
拝殿。当社は西面する。 |
拝殿奥に坐す本殿。 |
(この説明は参拝した順路順)つまり裏口から入り参詣。三の鳥居をくぐり石段を下り二の鳥居をくぐり津田川に架かる神橋を渡り一の鳥居をくぐってこの写真を撮った。当社も何故か和泉名所圖會にないが、Wikipediaには“阿間河滝村・土生滝村の産土神”云々とある。 |
|
矢代寸神社 鳥居と拝殿。南南西に向く。当社も何故か和泉名所圖會に記載がない。 |
|
拝殿。最近修復された様子がありありで、遠くから見えるその色調がある種の違和感を感じさせた。いやいやそんなことを言ってはいけない。これって、社運ご隆昌のあかしなのだから。 |
本殿。この後方(北方)街道沿いに「式内・・」云々の大碑板があったが、物凄い形相の(笑)お姉ちゃんがそこに寄り掛かって喫煙中。3分たっても5分過ぎてもいっかな動かないため撮影を諦めた。 |
まあ小さい。今日回った5社のなかで際立って小さい。詳しい説明が社頭になく、ネット上でも見当たらなかったし、和泉名所圖會には 「波多神社(はたのじんしゃ) 内ノ畑村にあり。延喜式内也。今牛頭天王を併祭る。神宮寺を朝日山長光寺といふ。」とあって、所在が異なる。これはどうやら圖會の時代、山直神社に合祀されていた時の記述のようだ(この時は山直神社というよりむしろ波多神社として認識されていたようだ)。それ以降に延喜式所載のここ・故地へ戻ったとしか考えられない。 |
|
正面社殿(上)と内部の本殿(下)。なお当社は南面する。 |
社頭の社名碑。「はた」の読みから古代秦氏との関連が考えられる。当市内にも畑町、八田町、さらには内畑町など痕跡らしいものがあちこちに残る。 |
滋賀県高島市新旭町旭に坐す森神社正面。式内社大寸神社の論社だが、信憑性は薄いという。(『玄松子の記憶』サイト参照) |
|
滋賀県(京都も)でよく見かける本殿拝所前の舞台。 |
本殿拝所 |
火走神社正面鳥居。府道62号線がすぐ前を通る。「火走神社(ひはしりしんじゃ) 大木村にあり。延喜式内也。今、滝明神と号す。此所の生土神とす。例祭、八月廿四日。むかしは、此神を祭るに男巫火の上を走る。故に、火走と号るなり。五十年来、此祭、絶たり。(後略:和泉名所圖會)」 |
|
拝殿。破風が独特。 |
拝殿奥に見える本殿祠。 |
日根神社の200mに及ぶ参道には鳥居が3基。これは一の鳥居。 |
二の鳥居と社号標石。 |
三の鳥居。奥に神門が見える。 |
拝殿。 |
本殿。「大井堰(おほせき)大明神 日根野荘日根野村にあり。例祭、四月二日。日根野荘の惣社にして、生土神とす。祭神うがや葺不合尊 延喜式内なり。聖武帝の御時勧請し給ふといふ。比売神社 大井堰社、鳥居の南にあり。延喜式内也。(後略:和泉名所圖會)」 |
|
式内・比賣神社。いまは日根神社の境内摂社。上述の和泉名所圖會時代でも既に境内社化したさまが窺える。 |
|
意賀美神社一の鳥居。この手前に朱塗りの神橋があり、石段上に二の鳥居が見えて正面が北(微西)向きであることを示す。 |
ところがこの拝殿は東(微北)に向き、その正面に鳥居がある。(下記) |
本殿。「武塔(ぶたう)天神ノ社 上郷上村にあり。〔延喜神名帳〕には、意賀美神社とあり。(和泉名所圖會)」 |
|
拝殿と同じ東向きの鳥居。 |
|
「蟻通(ありとをし)大明神 中通荘長瀧村の北にあり。本社、東向。拝殿、朱の鳥居あり。末社は、五社の明神、住吉、多賀、愛宕を本社の左に祭る。四面林中にして、神前に馬場二町ばかり許あり。其際に又、朱の鳥居あり。竪額、蟻通大明神。筆者詳ならず。此鳥居の右に、鐘堂、神宮寺あり。真言律宗にして、宗福寺といふ。本地堂には毘沙門天、不動尊を安置す。其東に社家あり。例祭、八月廿七日。長瀧村生沙神とす。(後略:和泉名所圖會)」 この所在関連の記述はすべて遷座前の旧所在に関わるもの。 |
|
舞殿。因みに当社は式内社ではない。熊野街道沿いに坐したが戦争中軍の飛行場建設で現在地に遷座したという。 |
拝殿。和泉名所圖會時代すでに祭神不明(今、大国主命)。紀貫之の故伝のみ伝わる。 |
この御旅所は府道248号線を経由してご本社から4km余りの位置にある。 |
正面鳥居 |
本殿 |
拝殿。「科長神社(しながのしん) 山田村東条にあり。〔延喜式〕ニ出。額、八社明神。元禄十四年五月、葉室正二位前権大納言藤原頼孝卿染筆し給ふ。例祭、六月八日、九月九日。山田、畑、葉室等の生土神なり。原は二上権現と称して山峯にあり。古跡に、今、蛭子祠を鎮座す。(後略:河内名所圖會)」 |
|
神社全景。「利雁神社(とかりのじんじゃ) 西坂田村戸苅山にあり。〔延喜式〕に出。今、王ノ宮と称す。此所の生居神とす。」 |
|
本殿、というより祠。(この祠だけ) |
|
一の鳥居 |
二の鳥居(これも鳥居と言うなら) |
拝殿。「狭山(さやまの)神社 〔延喜式〕曰、大。月次新嘗。(中略)狭山半田の間にあり。今、牛頭天王と称す。例祭、八月廿六日。半田、新町、池尻等の本居神なり。(河内名所圖會)」 |
|
垣間見える本殿覆屋 |
|
狭山神社拝殿左脇に別の参道が設えられている。 |
|
単に「堤神社」とも言うらしい。祠。 「狭山堤(さやまのつゝみの)神社 〔延喜式〕曰、大。月次新嘗。(中略)狭山池の東、明神山にあり。狭山郷中の本居神なり。例祭、四月十五日。秋祭、八月十五日。(河内名所圖會)」 |
半木神社正面。京都府立植物園内のなからぎの森に坐す。織物業の守護神といわれ、植物園内にあることから開園後は園の守り神ともなった。 |
社殿。かつては賀茂川氾濫の言い伝えから、流木神社と呼ばれたという。なお当社は式内社ではない。 |
高龗神社・脇浜戎大社社前の鳥居。この雰囲気は境内へ入ると一変する。近年建て替えられたと思われるが、そのせいか。関西三大戎の一といわれているという(関西三大戎って西宮と今宮のほかはいろんな説がある)。その“エベッサン”景気で商売商売になったのであろうか。龗という雨・水を祀る神社は地域コミュニティの変化で肩身が狭くなってきているように思われる。なお、境内には何の表示も無かったが、神前神社という式内社を合祀しているという。「神前神社(かうさきのじんじゃ) 神前村にあり。延喜式内也。今。妙見と称ず。(和泉名所圖會)」 そういえば、龗神社って和泉名所圖會に何故か出ていない。 |
|
同社(同々社というべきか!)拝殿。拝所両脇に2社の名前がある。因みに当社は真東に向いている。 |
背の高い本殿覆屋。なんとも味気ない。千木・鰹木で辛うじて神社とわかるが、さもなくばまるで工場か事務所だ。 |
境外へ出ると広大な駐車場が貝塚ランプ脇に。そして今現在の Google Map には写っていない巨大な鳥居が“エベッサン、ここにあり”と誇示している。ついでながら鳥居は両方とも、よくある明神鳥居ではなく神明鳥居。 |
|
和泉郡・加支多神社 3月14日 |
|
加支多神社正面鳥居。神社庁(大阪)のサイトには「かした」と読みがついていたが、ネット上の多数決(笑)で「かきた」とルビを振った。 |
拝殿。今日訪れた中でいちばん素朴。 |
本殿。拝殿側からどうしても撮れないため、神社裏のどこかの作業所に入らせてもらって裏側を撮った。「貝田(かいたの)神社 鶴原村にあり、〔延喜式神名帳〕、加支多神社。今、八幡社と称す。(和泉名所圖會)」。圖會には“日根郡”とある。 |
|
和泉郡(泉南郡)・阿理莫神社 3月14日 |
|
阿理莫神社社正面一の鳥居。拝殿前に二の鳥居。 |
阿理莫神社本殿(横から) |
阿理莫神社拝殿。ネットで見る当社は社叢深く、建て替えで失われたものの大きさをひしひしと感じた。現在は写真で見るとおり建物は立派になったが、それだけ。ホントそれだけ。 「阿理莫神社(ありまかのじんじゃ) 阿間河荘滝村にあり。延喜式内也。今、雨近明神と呼ふ。」和泉名所圖會には“泉南郡”とあり。 |
|
貝塚が信長の焼き討ちで全廃した後にできた宗福寺という天台宗寺院の鎮守。明治初年神仏分離で独立(寺は廃絶)したという。左は感田神社正面一の鳥居、右は拝殿(何れも西向き)。西・南の神門はいずれも寺院時代の様式をそのまま残し、東門には寺院の金剛力士にあたる武将(左大臣・右大臣?)が並立する。当然 式内社ではない。 |