大県郡・大狛神社 2月16日 |
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大狛神社拝殿(御供所?)。ここ本堂集落は柏原市ながら信貴山朝護孫寺へ1km余、徒歩半時間の位置にある。ここは柏原市というより奈良県三郷町文化圏。ウン。 |
本殿(拝殿?)への石段。「大狛」はその昔高句麗から移住した人々の定住した大県郡巨麻郷との関係が言われている。 |
本堂地区のメインストリートからの入口に何の表示も無い。僅かに説明標識が坂道の上に見えたのでそれを目当てに登ったら、そこにお社があった、というわけ。これは覆屋内の本殿。この集落には威風辺りを払う社寺は薬にしたくともない。 「大狛(おほこま)神社 〔延喜式〕出。本堂村にあり。今、山王と称す。此地の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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大県郡・金山媛神社 2月16日 |
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今日一番の長丁場を経て雁多尾畑の堅上地区に着く。「金山姫神社」の石碑と駐車スペース。 |
60段の石段をのぼる。これは結構新しい。 |
正面鳥居。左の高みには摂社・境内社。 |
拝殿。 |
立派な本殿。 「金山孫女(かなやまひめの)神社 〔延喜式〕出。雁多尾畑村にあり。今、山王と称す。此所の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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大県郡・金山彦神社 2月16日 |
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雁多尾畑から車道をひたすら歩くと青谷。山間部ながら溜池を前にして平地感のある場所に鎮まる。 「金山彦神社(かなやまひこのじんじゃ) 延喜式内。古は青谷村の山頂にあり。旧跡に老松あり。八大金剛童子社と称す。此地の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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拝殿。この中にたたら製鉄を復元実演したときのたたら炉が展示されている。ことほど左様に“金山”に関係が深い地域だったようだ。前述の「金山媛」も同様だろう。 |
本殿。境内は氏神さんイメージで明るいのに、ここは覗き込んでもなかなか見えない。 |
伝・安宿郡・杜本神社(東条) 2月16日 |
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河内国分寺跡の毘沙門堂脇に石段があり、「杜本神社」の幟旗が立つ。これプラス Google Map の記載が無ければとても到達できなかった。尤もこのMap上に「社本神社」と誤記されているのは頂けない。(以下2018追記:平安から鎌倉時代頃までは「社」と書いて「もり」と読むこともあったらしくあながち間違いとは言えないらしい。) |
石段を登ると正面にこの“拝殿”。鳥居や狛犬などそれらしい佇まいはどこにもない。明治に国分神社に合祀されたのを昭和4年改めて「故地」に祠を建てた旨境内に記した標柱があった。 |
河内名所圖會には古市郡の条の中に駒ヶ谷坐の杜本神社のみ次の通り見えるだけ。 「杜本神社(もりもとのじんじゃ) 駒ヶ谷金剛輪寺の上方にあり。(中略)〔延喜式〕云、杜本神社二座並名神 大、月次新嘗。(中略)此神社、〔延喜式〕に安宿郡と記せり。諸句邦に郡名違う事多し。これは、中古騒擾の後、国司、領主変易し、または村老迯趨て郡界錯乱す。後世、私に極るもの多し。旧記をもって証とすべし。(後略)」 秋里籬嶋の頃ここ東条坐は認識されて居なかったのだろうか。 |
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当社は式内社ではない。が、式内社・杜本神社を合祀した、謂わば家主さんなので併載する。 「天王祠 国分村にあり。(河内名所圖會)」・・・というのが当社だとする説をネット上で見かけたが、根拠がよくわからない。もしそうだとしても江戸中期はその程度の存在だったのか。 |
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伝・安宿郡・杜本神社(国分神社境内社) 2月16日 |
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国分神社境内(向かって右側)の杜本神社。注連縄、御神灯に狛犬が僅かに神社らしさを示す。 |
社殿の扁額には「森本大明神」。しかし覆屋内に掲げられた御神灯は「杜本神社」とあった。 |
本殿覆屋。 河内名所圖會所載記事は上記東条坐に記したとおり。 明治40年に国分神社に合祀された。昭和4年に故地に復座されたとのことで現在は両方に杜本神社があることになっている。 |
咸古神社鳥居。龍泉寺本堂の右奥につつましく。でもバス停からここまではキツかった。 |
同社本殿。明治後期には同じく式内社の咸古佐備神社を合祀したと伝える。 |
咸古神社拝殿。河内名所圖會の時代(江戸時代後期)には龍泉寺の鎮守で祭神も異なっていたらしい。(次記) 「牛頭山龍泉寺医王院(ごづさんりうせんじゐわういん) 龍泉寺村にあり。古義、真言宗。(中略)/鎮守咸古神社(かこのじんじゃ) 鍫靭。今、牛頭天王と称す。本堂の後にあり。〔延喜式〕ニ出。例祭、九月九日。当村と甘南備村との生土神也。(後略)」 |
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佐備神社正面鳥居と石段。洒落にならん厳しい階段だ。(乃公後ろ向きに獣のスタイルで降りたとはまことにもって云い辛い)。 「佐備神社(さびのじんじゃ) 佐備村にあり。〔延喜式〕出。此地の生土神とす。上梁文曰、河内国石川郡東条佐備郷高園宮文安元年十二月廿三日重修云云。(河内名所圖會)」 |
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正面拝所。社叢がみごとである。 |
本殿。立派なものだ。 |
鴨習太神社正面石段。 |
同社本殿。向かって右側は切れ落ち、左側は山で写真になりにくい。 |
鴨習太神社拝殿。「かもならいた」とは読み難い。全国に数ある“鴨族”のお社の一か。 「鴨習(かもならひ)神社 同村(神山村・編者注)にあり。此地の生土神とす。延喜式内。(河内名所圖會)」。 これから推すと江戸時代には社名に「太」がなかったのか? |
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壹須何神社正面。大ヶ塚台地の北方西端に坐す。 「壱須何神社(いちすかのじんじゃ) 一須賀村にあり。延喜式内。今天神と称す。当村大ヶ塚の生土神也。宮寺に十一面観音を安置す。(河内名所圖會)」。 「宮寺」とは神宮寺をさすと思われるが今は見えない。 |
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同社拝殿。 |
同社本殿。 |
東高野街道脇にある美具久留御魂神社大鳥居(一の鳥居)。 |
それから500m西の(これを鳥居というなら)二の鳥居。 |
正面鳥居は三の鳥居。ここまでの参道が長い! |
次の下拝殿の上・石段の途中にある四の鳥居。 |
美久具留御魂神社下拝殿。 「美久具留御玉神社(みくくるみたまのじんじゃ) 貴志村和爾ノ池の西にあり。一名、和爾神社。今、下水分ノ神社と称す。例祭、六月十五日、十一月十五日。近村六箇村の生土神也。嘉祥三年十二月、授従五位上。(河内名所圖會)」。 因みに名所圖會で「下水分」というのは建水分神社を「上水分」と言うのに対しての呼称。「みくくる」は崇神朝の神託で「山河之水泳御魂」とあったのによる。水に関係深いことに間違いない。 |
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上拝殿。 |
本殿。 |
式内・利鴈神社は明治時代美具久留御魂神社に合祀され同社の摂社となった。(が、旧社地にも再建されている。以下は河内名所圖會の記載だが、これは旧社地に再建されたお社のこと。 「利雁神社(とかりのじんじゃ) 西坂田村戸苅山にあり。〔延喜式〕に出。今、王ノ宮と称す。此所の生居神とす。」) 美具久留御魂神社本殿に並び、向かって右端に坐す。 |
今日訪れた四社はいずれも大和名所圖會に記載が無い。 |
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御供所と思われるが鍵が掛かっていてよくわからない。 |
本殿。いずれも南面する。 |
亀畑在の佐紀神社。鳥居は西面。次記の(西畑)佐紀神社とは御前池を挟んで相対する。 |
(亀畑)佐紀神社本殿。 |
(大和名所圖會ニ掲載ナシ)(亀畑)佐紀神社拝殿。南面する。 |
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西畑在の佐紀神社。御前池の西岸で佐紀路に面して坐し、南面する。(大和名所圖會ニ掲載ナシ) |
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(西畑)佐紀神社本殿。 |
(西畑)佐紀神社拝殿。 |
狭岡神社正面鳥居。南面するが、鳥居・参道石段と拝殿・本殿の中心線がズレている。 |
狭岡神社拝殿。よくある能舞台風。鳥居から真っ直ぐ登りきった左側に南面した拝殿・本殿がある。 |
狭岡神社本殿。式内・狭岡神社ではないという説がある。(大和名所圖會ニ掲載ナシ) |
まあ探した探した、どれだけ寄り道したか。瑠璃光寺境内にある若倭姫神社の一の鳥居。onmouse-up |
拝殿。式内社がマイナーな存在であることを痛感。 |
本殿。当社は次に記す若倭彦神社と同じく明治末期に恩智神社に合祀され、戦後本地に復元されたという。 |
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神社正面・拝殿と社号碑。街なかに坐しすぎて却ってわかりづらい。山ノ井町2丁目の谷筋の奥で地の人に聞いたら殆どご存知ない。おかげで1km余り南行して戻るという無駄足を踏んでしまった。 「若倭彦(わかやまとひこ)神社 鍬。〔延喜式〕出。平野村にあり。今、権現、八幡二座と称す。此地の生土神とす。(後略:河内名所圖會)」 |
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本殿。 |
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二宮神社正面鳥居と社号碑。 |
階段と拝殿。提灯吊り用の設備が何とも無神経。 |
内部本殿。当社はその在所から推して式内社・宿奈川田神社の故地といわれてきたが、今は高井田の白坂神社が正しいものとして認識されているらしい。 |
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大和川が北に流れを変えた、その屈曲点に程近い小山の上に坐す。写真は鳥居と拝殿。 「天湯川田神社(あまのゆかはたのじんじゃ) 〔延喜式〕出。高井田村の西にあり。此地の生土神とす。(河内名所圖會)」 |
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参道取り付きの社号碑。 |
本殿。 |
裏から本殿を望む。 |
拝殿。 |
当社正面鳥居。拝殿前の桃形の碑は柿本人麻呂ほかの歌碑。 「宿奈川田(しゅくなかはたの)神社 高井田村の東南にあり。土人、白阪明神と称す。此地の生土神とす。〔延喜式〕出。(河内名所圖會)」 |