竹内街道から東高野街道へ  2012年6月1日

♣ 独 行 ♣

式内社紀行も4月初旬以来、考えてみれば2ヵ月ぶり。今回の予定先のうち2社は10年ほど前に何やかやで歩いている。ま、コースのついででもあり、すべて取り込んで、まずは上ノ太子の駅頭に降り立ったのであった。

予定ルート:近鉄南大阪線上ノ太子駅(竹内街道)→飛鳥戸神社→杜本神社→大祁於賀美神社→(大黒橋)→(東高野街道)高屋神社→白鳥神社(高屋神社を合祀) →(昼食)→誉田八幡宮・境内社當宗神社→道明寺→道明寺天満宮→近鉄南大阪線道明寺駅

そうか、ここはかの竹内街道。いつぞや乃公欠席の折、AZハイキングで竹内峠を歩いている。ここが今日のスタート。

まず西行300m、右折400mで飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)へ。以前より社頭が“やや”整備された感じだが、ブドウ畑の中という立地に変わりはない。

街道に戻り、2km西を目指す。途中の彩り。

河内の飛鳥川。月読橋袂から100m余遡行するとこの歌碑♪あすか河もみち葉なか流葛城の/山のあき風吹そ志めらし♪人麿。新古今和歌集所載で、万葉歌の本歌取り。これを撰し揮毫したのが杜本神社の神宮寺・金剛輪寺(明治の神仏分離で廃寺)住職だった僧覚峰(1726〜1815)だという。

河内ワイン館のほうへ迷い込んでしまい、一つ手前の山裾をぐるぐる歩いて疲れた。ようやく辿りついたとき、目の前にこれ。貫禄のある社号標石。

杜本神社(もりもとじんじゃ)一の鳥居が青葉若葉に囲まれてすがすがしい。気を取り直して石段を登る。

街道に戻り飛鳥川を渡り返し、駒ヶ谷駅の踏切を越えて、豪華な大黒寺の南側に大祁於賀美神社(たけおかみじんじゃ)を見つける。掲示板に「・・氏子の家事の事情及び高齢化・・」で「・・大黒寺に継承しお祭していただく・・」というお知らせが貼ってあったのには吃驚した。確か“氏子の総意”で八幡さんに合祀されていたのを復座した筈なのに“氏子の都合”でお寺さんに神社の管理をお願いする、、、地域社会も戦後70年近くで大きく変貌したのだ。

石川を跨ぐ大黒橋を渡り、畑の中の道からふと振り返れば、二上山。

東高野街道に入ると、程なく高屋神社(たかやじんじゃ)。神社というより“祠”。

安閑天皇陵南で街道は右斜方向に曲がる。そこに「高屋城址」標識。城山姥不動明王が祀られている。城山は高屋城(15〜16C。御陵墳丘が本丸だった)のあったこの高台一帯を指す。

(承前)フーン。今は昔。安閑天皇陵後円部周濠。

そして近鉄南大阪線の踏切を越えるとまもなく白鳥神社(しらとりじんじゃ)。これは参道の高灯籠。

Sample

遅昼を王将で済ませ、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)へ。神仏分離で廃された神宮寺・長野山護国寺の建物で唯一この南大門が残った。onmouse-up

境内社・式内社の当宗神社(まさむねじんじゃ)を覆うカエデの若葉。

東高野街道が誉田中学校脇で分岐する地点の石碑。左の標柱に「右道明寺玉手なら京道/左八尾久宝じ」。ということで街道は右へ。真ん中のずんぐりしたのは「東高野街道」です。

左は道明寺参道から楼門を望む。右は道明寺天満宮石段上の「土師窯跡」(はじかまあと)碑。明治の神仏分離までは天満宮は道明寺の鎮守のような存在だったらしい。その後は寺が退去して現在地に移ったという。窯跡碑は、道明寺が土師氏の氏寺として創建されたということを如実に示す。

ということで今日の予定ルートを辿り終え、道明寺駅から帰途につく。まあ今日は暑い一日。道明寺線でJR柏原に出ようと思ったが待ち時間が多く断念。往路を戻る。

今日の総歩数 不明(約12km)    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら