♣ 独 行 ♣
物部守屋ゆかりの地は10年近く前、カルチャー講座の 「万葉を歩く」 で歩いた記憶がある。それをこともあろうに最高気温35℃と予報された今日歩こうと何で思うネン。もし引っくり返りでもした日には「正気の沙汰ではない」と謗られかねない。ま、そこまで悲壮な思いで出掛けたわけではないのだが、やはり暑う御座んした。 |
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地下鉄八尾南駅から八尾空港目指して東行、中環を越えて途中から左折北行。約600mで光蓮寺という真宗の寺院に到着。見ての通り壁には五本の白線。これは「門跡寺院」だとか「別格本山」だとかNet上ではいろんな説明が氾濫している。要は格の高い寺院なのだ。 |
門前には寺名表示が見当らなくて、この「稲城址」の碑があった。碑に曰く「聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したという。稲城は稲で囲った城とか、稲積の城であったとか伝えられる。この碑は昭和十四年建立された。八尾市教育委員会」 |
木の本の樟本神社。このお社は延喜式にも「三座」と記され、千数百年前すでに三つの集落で奉斎されていたことを窺わせる。「樟本」というからには巨木の霊を祀ったものか。それに統治者物部氏の神・布都大神や饒速日命が祀られるようになったのかも。三社を拝観して、ここが「ご本家」の感じがした。 |
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北行してほどなく「南木の本」の樟本神社。南向きだが鳥居の位置が南西隅で、参道が斜めになっている。祭神は前者と変わらず。(鳥居右奥が日羅寺) |
境内の日羅寺(黄檗宗)扁額。守屋が滅ぼされて神社の存亡の危機にこの寺院の境内に移設することで解決したという伝承。今は無住。明治の神仏分離時はどうしたのだろう。 |
中央環状沿いに東面する「北木の本」の樟本神社。規模は最も小さく、樹叢もほとんどない。 |
この鳥居をくぐってすぐ右手にあるのがこれ、「守屋首洗池」。このほか「鏑矢塚」や、「弓代塚」など守屋終焉にまつわる遺跡が近所に多い。 |
物部守屋墓。玉垣には全国の有名神社が名前を連ねている。仏教排斥サイドに立ち、日本古来の神祇の道を守ろうとしたと伝えられる守屋の墓なればこそか。 |
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そのすぐ近くに位置する大聖勝軍寺。別名「下の太子」。守屋の別宅がここにあったという。 |
勝利を収めた聖徳太子=蘇我馬子がなぜその場所に寺を建てたのだろう? |
澁川神社一の鳥居と拝殿。広い境内。JR大和路線の電車の音が間歇的に聞こえる。境内は楠の巨木群が疎らに見えるほど広い。 |
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大阪府指定天然記念物の大楠 |
負けず劣らずでかい大楠 |
そして、大和路快速で大阪経由で帰れば速いのに、物好きにも乗ったことのないおおさか東線の電車に乗ってみようと。ま、そういうことだけで、八尾の次・久宝寺駅で乗り換えました。 |
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久宝寺駅の路線表示板 |
久宝寺駅に止まる放出行き普通電車 |
時すでに1時。何か食べようと放出、尼崎(!)でエキナカを物色しましたが全く店が無い。仕方がないので大阪駅で途中下車してカレーを食べて岸辺に戻ったのでした。 |
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今日の総歩数 13,955歩  ̄|△| ̄ ルートマップは省略 |