稲村ヶ岳いなむらがたけから山上ヶ岳さんじょうがたけ

1987(S62)年8月12日~13日

五連休をどう過ごそうか。最初は長男がついてゆくBSのキャンプに同行し、近畿最高峰の弥山みせん(1,895m)+八経ヶ岳はっきょうがたけ(1,915m)に登ろうかと考えたが、テントに2泊するのがうっとおしく、このコースに決定した。昨秋近藤部長とH氏が登っており、一度やってみたかったところでもある。靴のくるぶし隠し部分がボロボロになったこともあり、先日ロッジで大枚18,200円投じて軽登山靴を新調した。今回はその履き初めでもある。

フィルムに写し込まれた撮影年月日は日/月/年で表示されているが、82年となっているのは設定ミスで、87年が正しい。(2009年注記)

近鉄阿倊野橋8時の特急。ガラガラである。9時下市口着。20人の団体のために臨時バスが出ることになったのでそれに飛び乗る。9:25発車が9:08発となり、一路洞川どろがわへ。途中は一車線しかないところもあり、相当な道である。

近鉄下市口からバスでいくつも峠を越えた。今ある4つのトンネルがまだ出来ておらず、このような看板が峠道に掲げられていた。(2009年注記)

峠を三つ越えて川合からミタライ渓谷沿いに洞川に入る。10:45着。停留所で明日のバスの予約をして歩き始める。

ミタライ渓谷沿いにバス道はなく、これはカン違い。虻峠越えで洞川に入ったのであった。1時間半余りかかっている。(2009年注記)

洞川左岸の通りは旅館ばかり。いずれも○○講御宿のような看板ばかりかかっている。いかにも大峰参詣の基地といった感じ。意外に高校生などの合宿が多い。サッカー、バレーボールなど。窓は汚ないシャツのオンパレード。涼しいので合宿には良いところだ。 正面に岩屋峰(1,334m)を見ながら暫くゆくと赤井という民宿がある。多分稲村小屋の経営者の民宿だろう。

ほどなく洞川の町を出はずれると稲村別れ。本道を左に見てうっそうとした杉林の中に入ってゆく。11:05。実にしめっぽい道。

15分ほどで五代松ごよまつ鍾乳洞がある。入口に高校生くらいの番人が赤いトレーナー姿で坐っている。「深さはどれくらい?」「深さはわからんけど、出口は上の方にあります」「どれくらいかかる?」「15分くらいかな」ここは通過することにする。ちなみにこの鍾乳洞は発見・開発した赤井氏の父君故五代松氏の名をとってつけられている。

この新道ができて何時で五十年になったのだろう。名前が残るっていいね。(2009年注記)

だんだん汗が出てくる。湿っぽい道をじわじわと登ってゆくが、これが何とも長く感じられる。立ちどまっているときに数人に追いこされる。時折木の隙間から左手に岩屋峰が見え、それが段々高度を下げてくる。昼食中の夫婦連れをやりすごすあたりから岩屋峰は見えなくなる。「まもなく法力ほうりき峠、メシはそこにしよう」。

五代松新道途中で振り返ると、洞川が見えた。(2009年注記)

12:20法力峠着。シャツを全部脱いで裸でメシ。シャツはグショグショである。カブ弁のおにぎり2つ半であと半分残す。食べている最中にヤング1人が追い抜いてゆく。シャツをTシャツに代えて12:40出発。相変らずの曇天である。

法力峠。「左稲村ヶ岳」をとったわけだが、2009年10月「右観音峰」の“観音峰”へ登った・・・・・このときはこの名前すら知らなかったし、興味がなかった。(2009年注記)

半時間ほどで水場に着く。水場といっても、苔むした岩間からしたたり落ちるもので水量はない。でも冷たい。ボトボトになったタオルを絞り、顔を洗って一息つく。先ほどの夫婦連れともう一人にここで追い付かれ、追い越される。フト気がつくと、右手木の間越しに特異な尖峰が見えている。「大日だいにちだ」

道端に建てられた記念の標識「第五回稲村山登山記念・吹田市立山田第三小学校」。この1987年(昭和62年)はもう山田の住人だったのでこれを撮ったのだろう。(2009年注記)

とにかくこれといった急な道ではないのだが、久しぶりのことでもありしんどい。休憩がだんだん多くなる。左手の斜面の上の方に隙間が見えてきたと思うまもなく突如小屋。山上辻小屋だ。締まっている。

これをくぐると左手に「山上辻/左山上ヶ岳/右稲村ヶ岳」の標識。そして右手目の前に稲村小屋。時に午後2時。

写真をよく見ると標識は「洞川⇔山上ヶ岳/山上辻」となっている。別の標識があったのだろうか。(2009年注記)

ここは山上ヶ岳からの支稜がクモクビ塚で二つに別れ、その一つが稲村ヶ岳に向かう鞍部である。小屋はそのいわば吊り尾根の傍に建っている。トタン屋根の低い建物。入口から中を覗く。炊事場兼休憩所のようであるが、何ともすすけている。裏に水がドンドン出放しになっているので、顔を洗い、シャツやタオルを絞る。しばらくボーッとする。一人中学生みたいなのが木の切株に坐ってトランジスタラジオを聞きながら何やらやっている。休憩所の一隅にリュックを置かせてもらい、カメラと水筒だけ持って再び出発。14:35。

目指すは大日、稲村ヶ岳。日和がもう一つはっきりしない。熊笹の道をしばらくゆくと、木の間に大日のものすごい絶壁が見え隠れするようになる。なかなかカメラポイントがない。つまりスカッと抜けて見える場所がないのだ。途中ヤング、夫婦連れともう一人戻ってくるのに出くわす。「稲村には展望台があります。展望はマァあんなもんじゃろか」。

振り返ると山上ヶ岳(2009年注記)

大日分岐の標識「右大日岳登り道/左御殿屋敷展望台」つまり稲村ヶ岳ピークの展望台だ。(2009年注記)

大日の東をトラバースして稲村ヶ岳との鞍部に出るが、これがかの大日のキレット。今までの写真では到底この壮絶さは表せない。事実私もこれほどとは思っていなかった。ほとんど90°に近い両側の岸壁が鞍部で一緒になれなくて切れ落ちている。東側は辛うじて尾根道として繋がっているが、西・・というより尾根道のそばからズリ落ちて底が知れない。下が見えないだけに怖い。今いるこの道も時日の経過とともに崩れて、このキレットはますますその深さを増すのではなかろうか。そうなると高所恐怖症の私など出る幕はなくなる。

稲村のピークから大日を振り返る。(2009年注記)

まずは稲村ヶ岳だ。そう考えて進む。クサリ場が2ヵ所ある。東を巻いて尾根道に出る。オヤ、道が進行方向と、その反対方向の両方についている。とにかく前進ということで左をとるとブッシュとなる。このままではバリゴヤの頭まで行ってしまう。慌てて引き返し、反対にとってひと登りすると展望台。15:05。

まあこれが・・・・。一応ここは高所である。鉄骨と木材を上げて組み立てるのも大変だったろう。しかし、しかしである。ここがどこなのか、ここは何mあるのか、方向はどうなっているのか、どの方向に何が見えるのか、まったく表示がない。僅かに天川村の「山をキレイに」式の通り一遍の看板があるのみ。山上ヶ岳より高く、最近林間学校の生徒の登山も多いと聞く。もうすこし何とかならんもんジャロカ。あまつさえガスで何にも見えない。クモクビ塚から念仏山あたりが視界に入るのみ。弥山の方向は全くガスの中。赤とんぼがやたら多い。

(方角不明)

(方角不明)

(方角不明)

ヤマアジサイの上を赤とんぼが乱舞しているあたり、6月と10月が同居している。高山とは不思議なところである。30分頑張ったが、とうとうチラリチラリと一部が見えるに止まり、諦めて帰途につく。途中大日のキレットは先ほどとは様相が変わり、ガスがうずまいている。そこで考え込む。どうしようか。ここまで来て諦めるのは癪だ。しかし上まで上がってもこの調子では何も見えないだろう。また足も大分ガタがきている。梯子やくさりで万一のことがあっては・・・・。結局諦めることとし、通過する。

15:55小屋に帰り着くと早速どうでしたと聞かれる。かくかくしかじかと答えると、折角なのだから大日に上がった方がよかったのにと残念がられた。しばらく外でしゃべったあと4時半ごろポツポツ来たので小屋のおじさんの声で部屋に入る。

小屋主赤井邦正氏。大正8年生れとか。左卜全を若くして女顔にしたような、独得の顔。稲村ヶ岳に関しては先代故赤井五代松氏時代から主(ぬし)のような存在。山小屋会でも知られた顔で、北アルプス山小屋会穂刈ほかり会長とは旧知の間柄とか。ちょっと偏屈ではあるがどうして々々。
 アルバイターO君。天王寺高校2年で登山部員とのこと。寡黙ながら仲々の働き者とみた。メシを炊きながら暗いランプの光で文庫本を読んでいる。

客は9人。まずO氏一家4人。小屋主の親戚とかで、特別待遇(彼等だけフロOK)のようであった。旦那は中小企業主といったタイプ。夫人はピンクなど着て若づくりであったが、旦那共々40から40代前半。そして高校生の娘2人。
 次にH氏夫妻。寝屋川在住とのことであったが、どう見ても言葉は大阪以外。特に夫人は何処とも知れずなまりがきつかった。旦那は若いときからの山屋のようで、北アルプスなど相当詳しい。
 三人目は犬山市のH君。20代なかばの勤め人と見た。なかなか足が達者。自分はあまりしゃべらず他人の話をフンフンと聞いているタイプ。御岳や中央アルプスがホームグラウンドとか。
 そして高槻のF君。三島高校の2年生。先ほど中学生と見たは僻目。可愛らしい声をしてO君と同年とはとても思えない。言うこともなかなかしっかりしている。こんどのプランはすべて自分で組んだというあたりと、父君に車で送ってきてもらったというあたりが大人と子供の中間のようでおかしかった。

ポツポツときていたのがやがて稲妻と雷鳴を伴った夕立となり、中々やまない。トタン屋根を叩く音がものすごい。台所やあちこちで雨洩りが始まる。道から土間に雨水が流れ込む。おじさん曰く「ナーニ、もうすぐ止むよ」 実はこの夕立、5時半まで続いたのだが、一時はどうなることかと思ったほど凄まじかった。おじさんまた曰く「秋は近い」

6時過ぎ、暗い石油ランプとガスカンテラの下でスキ焼の夕食が始まる。風呂と同様電気もあることはあるのだが、ふだんはつけないとのこと。何とも暗い。玉葱、白菜、菊菜、葱、さや豆、大根、こんにゃく、そして肉。おじさんが調理すべてをし、9人がナベを囲む。云い忘れたが、こんろは白灯油圧搾式のもの。「さあどうぞ」で食べだした。缶ビールを注文するとこれが500円。「ア、しもた。胡瓜を朝漬けておくのを忘れた」とおじさん。でも結構おいしかったし、ボリュームもあった。ただ暗いせいで、F君が口に入れた肉が生だつたという笑い話もあった。9人の済んだあとはおじさんとO君の番。皆後ろに引っ込んで思い思い雑談にふける。

ここでF君から「おじさん」-これにゃ参ったネ。しかし彼にしてみれば私は親年代そのものであり、当然かも。動揺を見せず「何?」。ここで始まったのが、今日登ってきた山上ヶ岳経由ここまでの道についての不満。つまり、あちこちに橋や梯子がありすぎる。自然に手をかけ過ぎている。役小角が開いた根本精神から離れてしまっているではないか。いま役小角がこれを見たら嘆くだろう・・・・云々。次いで明日のコースについての相談。「吉野へ行きたい。7~8時間かかるのは構わない。しかしおじさん(ここでは赤井氏)が“明日は午後天気が崩れる"と言っていたので、尾根道は落雷の危険があるし・・・・。ミタライ渓谷も行きたいので稲村道を下りてそちらへ行こうかナ。でも今吉野行きを諦めたらあとで悔やむだろうし・・・・」。キリがないので「十分注意して吉野へ行けヤ」と至極無責任なアドバイスをしてしまった。もっとも他の連中もほぼ同意見だったが・・・・。

一段落のあとはおじさんの自慢話。まず、わかくさ国体の山岳会場になったとき、洞川へ常陸宮ご夫妻が見えられ、説明を仰せつかったこと(証拠の写真付)。そして北アルプス山小屋協会の穂刈会長との交友。貰った槍ヶ岳を中心とする写真にいちいち説明がつく。続いて山の怪談。弥山小屋(旧)で首吊があつた話に至ってO氏の娘が耳を塞いでしまったので、この話は中断された。

就寝9時ごろ。夕立一過の星空が窓からキレイに眺められた。
   満天の星 凍る夜気
   山々は黒々と 雪に埋もれた小屋を包む
   カンテラの にぶい光
   リュックを枕に 重い足を長々と伸ばして
   目をつむれば・・・・
   あすも晴れてくれ (清水脩/「山に祈る」より)
明日は晴れてくれ。
★明けて8月13日。

明くれば13日。毛布1枚の雑魚寝だったが、トレーナーを脱いで寝ても寒くなかった。少々蒲団が湿っぽいのと、隣のいびきが気になったことを除けばまあよく眠れたと言えよう。 4時、おじさんの「御来光を見にゆく人は起きて下さい」。少したって「もうすぐO君が案内に出発します。もう起こしませんよ」それでも寝ていたのがO家の娘2人、H氏そして私の4人。 5時半もぞもぞ起き出して顔を洗っていると、おじさん皮肉っぽく「もう陽はあがってる。頂上ではネ」とのたまう。空は一点の雲もない。快晴。 6時前H君朝食なしで出発する。もう1日余裕があるので山上ヶ岳へ行き、そこからどこかへ回りたいといっていた。 生卵、味付海苔、味噌汁、胡瓜と大根の浅漬の朝食。メシを1杯半食べて出発準備。シャツ類がズクズクで全く乾かないのには参る。新しいアンダーの上にまだ汗でじっとりしている長袖を着る。H氏夫妻より5分ほど後れて出発。6:15。

朝の陽光はほとんど水平に木立の間から差し込んでくる。ときどき真正面からの光線に顔をしかめながら露(昨日の雨の名残)の道を辿る。

途中額にご朱印をの鉢巻を巻いた2人とすれ違う。こちらの「今日は」に対し、「ようお詣り」と返ってきたのに驚いた。そしていよいよ信仰の山にさしかかったのだという実感が湧いてくる。クモクビ塚の南面から念仏山の北面を巻き、レンゲ峠に着く。6:45。

ここでH氏夫妻に追いつく。見ると旦那はレインスーツのズボンを穿き、夫人はビニールのレインコート様のものを腰に巻き付けている。ここは女人結界。大きな掲示板もあり、特に今のようなシーズン中はまず入れない。旦那笑って曰く「先ほど2人とすれ違ったでしょう。あの2人が何とも言えぬ目付で私達を見てましたよ」。そういってこの道を下りますと指差す谷道は、急斜面に熊笹がびっしりと茂っているではないか。「気をつけて下さいよ。谷はゆうべの雨で増水しているかも知れないし」といって別れる。

途中弥山方面を撮ったパノラマ写真(画像クリック⇒拡大)(2009年注記)

下山してからは時間があるので、ミタライ渓谷を歩いて川合でバスを拾うつもりですというH氏夫妻を見送り、いよいよ小稲村の岩峰にかかる。Hさんの話やなにかを総合して、大したことはないとたかをくくっていたが、どっこい、そうは問屋が卸さない。岩にへばりついて半分崩れかかった道をソロリソロリと通過する(これは最高怖かった)。

それが過ぎると崖にかかった木の梯子段をよじ登る。F君のいっていた「役小角がこれを見たら嘆くだろう・・・・云々」はこれだったのだ。しかし当方“おじさん”としてはこれがなかったら多分引き返さざるを得なかっただろう。信仰が現代化したというか、レクリエーション化したというか、こうやって危険を少なくすることによって、この現代にドライブウェイもつけずに大衆信仰が生き延びていられるのだ と考えたらどだろう、F君。

あえぎながら梯子で急に高度を回復してゆく。振り返ると念仏山がだんだん目の下に沈んでゆき、その後ろから徐々に大日と稲村ヶ岳が顔を出してくる。またその左手に雄大な弥山が姿を見せている。

山上ヶ岳への道すがら振り向いて稲村方面を撮ったパノラマ写真。(画像クリック⇒拡大)右端に洞川がチラリと見える。(2009年注記)

もう少し、もう少しと自分に言い聞かせる。だが、手はだらしなくも岩や草や梯子の上の段をつかんでへっぴり腰。四つ足時代に大きくタイムスリップしたような錯覚に陥る。全く他人には見せられない、哀れな姿である。軍手はドロドロのビシャビシャ。

7:30。「稲村ヶ岳縦走口」に飛び出す。山上ヶ岳に出たのだ!! すぐ道を右手にとり、お花畑で写真をとる。絶景かな!! 稲村ヶ岳右遥か向うの低山にかかる雲海。そして何度見てもすばらしい大日、稲村ヶ岳。次に弥山、近畿最高峰・八経ヶ岳。更に左へ弁天の森ピーク(1,600m)、行者還岳(1,546m)など奥駆道の秀峰が並ぶ。

ついでに自分の写真も通りすがりのヤングに撮ってもらい、100m向うの本堂へ。

本堂外陣は先般の建て替えの折りの発掘調査で貴重な遺物が発見されたことでつとに有名。内陣は信仰上の理由で発掘調査を許さないという。思ったより本堂は小さく、境内も小さい。付属の建物も殆どない。山岳宗教の本拠としてはかえってすっきりしていると言えるかも知れない。

本堂で手を合わせたあと、暫く休憩する。

南を見る。奥駆道の秀峰はきれいである。快晴。雲もあるが昨日のような意地悪い雲ではない。午前中は天気がよいという。山歩きは早起きし、午前中に歩くにしくはなし。ちなみに今、何とまだ8時。

早いついでにさっさと下山しよう。8:15出発する。坂道の途中は参詣回数記念の石碑が林立している。坂道を下り、右の石段を下って大きな二軒の宿坊の間を抜ける。いずれも玄関前に大きな天水桶と洗面場がある。ここは水が至極不自由なのだ。この結果、龍泉寺に寄り搊ねた。

どんどん参詣人が上がってくる。10人中9人以上、つまり殆どの人があいさつに対し、「ようお詣り」と返してくる。ことここに至って、ここ大峰は普通の山じゃないのだ、私も敬虔な参詣人の一人なのだという気になってしまう。

8:40 西の覗きにさしかかる。怖いので岩の上には出なかったが、鉄柵のところから目の前の絶壁の写真を撮る。道は岩(石灰岩)だらけで、濡れているため歩き辛いことこの上ない。大股で歩くと滑る。もうこれ以上滑って身体を痛めることもあるまい。慎重に、慎重に。

これが西の覗きかどうかは確かでない。(2009年注記)

8:50 鐘掛岩そばを通過する。下から見上げると大きな岩。これも大変。鈴を鳴らし、念仏を唱えながらこの岩を登っている人がいる。

これは鐘掛岩ではない。が、素晴らしい巌峰だ。(そう、立ち上がったイグアナに似ていないだろうか)(2009年注記)

地図によるとこの辺は危険との表示があるが、木の梯子段で大分緩和されているようだ。長い梯子段を下り切ったところが登り道の分岐であるところから、この想像は多分当たっている。だらだら坂を下り、9:10洞辻茶屋着。

吉野道分岐でホッと一息ついていると、フト手に赤とんぼが止まるではないか。写真をそばの人に撮って貰おうと、カメラを外しかけると、回りにいたひとたちも「珍しい」「縁起がええぞ」と大騒ぎ。しかし騒ぎに恐れをなしたか、とんぼはまたフッと飛び去ってしまった。仕方がないから渡した人にとんぼのいない写真を撮ってもらって出発。9:15。

9:35お助け水にさしかかる。冷たいいい水。一息入れる。この先は伐採しており、しばらくはカンカン照りの道である。だんだん足に来る。相つぐ岩場と梯子段で足に応えたのだ。ちょっとしたことで小さな石にひっかかり、蹴とばす。飛び上がりそうに痛い。昨日の登りはじめからこすれていた右足小指も痛い。だんだん足が自分の意志と別のところで動いているような感じになる。10:05一本松茶屋通過。太った子供があえいでいる。犬も1匹。だんだん椊樹帯に入って一ノ世茶屋に10:30。ここではじめて缶ジュースを飲む。200円。「結界までどれくらい」「600mくらいかな」それにしては200円は高いんだよ。道は二筋に別れるが、楽だろうと考え、旧道(といってもそこに見えているのだ)をとる。こんなに木の根っこが邪魔だと思ったことはない。

10:50結界着。ここで長袖とアンダーシャツを脱ぎ、Tシャツに着替える。もうズクズク。ポリ袋の中はズクズクだらけになる。自家用車が大分駐車している。F君、やはりこれはちょっとやり過ぎだよな。せめて洞川までは歩いてほしいよナ。カンカン照りの大峰大橋を11:00出発。途中、山上川の川原でキャンプしているのが何組か見える。ゲマタ橋、母公堂ははくどう、五代松鍾乳洞登り口を過ぎ、昨日登りはじめた稲村別れを11:40通過。大阪6団のカブ隊とスレ違う。

龍泉寺に11:55。写真を撮ってバス停に12:00着。アアもう歩かんでもええ。ホッとする。バス停近くで、これまた別のカブ隊が開舎式をしている。昨日15:45のバスを予約していたが、時間があり過ぎるため交渉したところ、案外アッサリと12:25がOKとなった。バンザイ。これで予定より3時間は早く帰れる。売店でジャムパンとアンパンとポカリを買い、予定しなかった内容の昼食をしているところへH氏夫妻。「あれ、ミタライ渓谷へ行かれたんじゃ・・・・」「いや家内がもうしんどいというんで、山上川沿いの自然探索路をゆっくり歩いて来ました」とのこと。

バスは予定通り12:25発車。冷房のない(来しなはあった)バス。途中から雨になる。14:00下市口着。特急は14:25。もうここまで来たらどうでもええワてなことで、14:09の準急の人となり、途中よく寝て、15:40頃阿倊野橋着。かくて初めての山小屋1泊登山は終わったのである。

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