♣ 独 行“八尾市内の御坊巡り” ♣
思い立って家を飛び出したはいいが時間たっぷり。仕方がないので歩いて先のBSへ…という話は置いといて、久しぶりの中河内はJR久宝寺駅頭に降り立つ。時は12:40。 |
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今日の予定は八尾の寺内町巡り。久宝寺は既訪問なので八尾と萱振だけのつもりだったが降車駅の関係で“ついでに”久宝寺御坊も入れた。これが正解。久宝寺駅北出口から“久宝寺寺内町”なくして何の!という雰囲気=意気込みがひしひしと伝わってくる。 |
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東北に斜行するとこのお社の鳥居が見えてくる。許麻神社。式内社巡りで数度訪れており、御坊もそのついでに立ち寄った記憶。→(2011年) |
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(行程的には南西角→北通用門→と通ったのだったが、わかりやすく順番に並べる)山門。そして少し右に離れて寺号碑「蓮如上人御建立/久宝寺御坊 顕証寺」。 |
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顕証寺は「久宝寺御坊」とも言われる浄土真宗本願寺派の寺院。旧大和川流域の交通の要所として栄えたこの地域で明応年間(1492〜1500)に本願寺第8世の蓮如によって「西証寺」として創建。その後その子蓮淳が「顕証寺」と改めて、天文の一向一揆(1532〜1535)の戦いの中で被害を受けた堂塔の再建をすすめた。この頃に久宝寺寺内町が整備され、その後発展したと考えられる。現在の顕証寺に残る江戸時代中期に再建された本堂をはじめとする歴史的建造物群は、大阪府指定文化財(建造物)として指定された。(八尾市のサイト抜粋) 因みに左右の像は蓮如と親鸞。 |
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この御坊を中心に周囲に二重の堀と土屏をめぐらし、街路は碁盤の目のようになっていた。このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。 |
顕証寺の南に残る水濠と土塁(屏)のあと。 |
本願寺が東西に分裂したのち東が川向うに寺を作ったという、その川は付け替え前の旧大和川。境界になった川は付け替え後長瀬川となり、この通り見る影もない。 |
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歩いていて思ったこと、それは顕証寺側は“寺内町して”おり、整然・静謐。これに比し大信寺側は大きな商店街があってやや雑然、そして見るからに賑やか。 |
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顕証寺から東(微北)方1`もない、そこにできた大信寺。威容というより異様。山門と「真宗/大谷派 八尾御坊」の碑。 |
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本堂。大信寺は別名八尾御坊、真宗東本願寺の別院。慶長11年(1606)東西本願寺の分立のとき地を与えられて八尾御坊を建立。寺内町をつくり 八尾発展の基を開いた。万治3年(1660)現地に移建。天明年間京都の本山が焼けたときはこの本堂を移して御影堂に代え、10年後再び返され旧に復した。昭和28年(1953)白蟻被害により本堂が倒壊し、その後鉄筋コンクリートにより全面改修された。(八尾市のサイト参考)。有為転変とはまさにこのこと。富田御坊でも感じたが、大谷派の寺院は内陣Openが多い。 |
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お逮夜市が有名だという。 |
「河内縣廰跡」の碑。明治2年(1869)1月河内県が発足。県庁を大信寺の対面所に設置。同年8月堺県に編入され河内県は廃止されたという。 |
コロナ禍の影響だろう9割がたの店が閉まっており、♪ガラガラ閉店♪化していたことだ。 |
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ÆONから近鉄八尾駅前までファミリーロードという商店街のアーケードが400bがとこ続いている。大信寺を出てすぐこの天神さんがある。が、周りは閉店ガラガラ。↘ |
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楠根川を渡る。遠く信貴生駒の山並み。Ummh! 第3ターゲットまでが少々退屈。近鉄のガードを抜けてせいぜい1`チョイなのだが。↓ |
近鉄大阪線のガードをくぐって北帰行。おや、このビルはH社→AZ社のMM君の母校ではないか。(八尾駅前キャンパス) ← |
1`チョイの長丁場を歩き切って最終ターゲット門前着。 |
ここも西本願寺の末で、御坊の名をもって呼ばれる。曰く大徳山“萱振御坊”恵光寺。 |
新しいお寺の建物は木造・鉄筋コンクリートを問わず2階建になるのだろうか。大信寺もそうだった。18C初頭建立の顕証寺はそうでなかった。 |
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“庚申さんの身代わり申”を帰る途中で見かけた。AZハイキングでは2015年12月例会(奈良町散策)を思い出した。 |
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そんなこんなで気が付いたら昼餉無しで歩いていた。日本橋で乗り換え時に地下街を覗いて見たが、開いている店が殆ど見当たらない。帰るしかないか。でも15時という時刻。下手に食べると夕飯がナァ。 =JR久宝寺駅→許麻神社→顕証寺→大信寺→恵光寺→近鉄八尾駅=鶴橋/日本橋= |
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今日の総歩数 11,540 歩  ̄|△| ̄ ルートマップはこちら |