♣ 独 行“東淀川区の春日社を訪ねる” ♣
「北摂の春日社」と銘打ったものの、北摂ってどこからどこまで?という区切りが難しい。茨木から始めて吹田箕面豊中高槻まで行って「北は否応なしに府県境、西は取り敢えず武庫川、そして南は淀川」と大まかに決めた。そしたら予想外の淀川3区が入ってくる(当たり前だが)。そこで改めて調べたら何と春日大神を祀っているお社は東淀川区だけ。淀川区・西淀川区には無いことが判明して吃驚。漏れがあるかも知れないが、淀川河口に近い程少ないということらしい。仮に100年以上前に坐したとしても、淀川の流路変更で遷座したお社を沿岸でいくつも見てきた。それは淀川3区内でも十分あり得ることだろう。因みに東淀川区には(既訪)あとまだ2社ある。 |
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「家が建つ」といわれた田園調布ほどではないがその“ミニ版”といえる街並みはここ阪急京都線相川駅前のこと。乃公この駅で降りるの初めて。 |
駅前からやや右に向かって突き抜けると数分で神崎川。小松橋下の河川敷は遊ぶ子供たちの喚声。ボチボチだが日常が戻ってきたみたい。 |
小松に坐す松山神社。通称天満宮。祭神は菅原道眞。天照大神、住吉大神、春日大神を配祀するという。明治年間に大隅神社に合祀されたが昭和19年現在地(故地)へ遷座したという。 |
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拝殿の扁額“天満宮”は正一位前大納言による。という。(誰や?そういう名前か?ようわからん) |
お参りの最中付いて離れなかったネコ。(撮り忘れたのでみー散歩さんのウェブサイトから拝借) |
小松公園の先にある一の鳥居。扁額には“天満宮”とある。 |
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例によって例の如し、なんて言いたくないが今日もまたやってしまった。Mapのプリント片手に確認しながら歩くのだが、交差点で一筋間違えるととんでもないことになる。今日は大桐5丁目交差点まではよかった。このあと悲劇が起こる。ここは四ツ辻の様に見えて実は八ツ辻なのである。なまじ東南方向の八百屋さんが三つの筋を隠しているので(言い訳)200b足らずで行き着けたのに、西南へ500bばかり突っ込んでしまった。辛うじてMapの大経大と7-11の標識で気付き戻ったのだが、この鬱憤は誰にぶつけたらいいのやら。有森裕子を真似して言えば「自分で自分を叱ってやりたい」状況。 |
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大道に坐す大隅神社。応神天皇大隅宮→賀茂神祠となり、明治初年に大隅神社となったという。祭神は応神天皇、別雷大神、天児屋根命、ほか八柱。神仏混交時代は乳牛山大道寺の僧侶が別当として神社管理にあたり、等々述べると一大論文になるのであと一切省略。当社に限らないが有為転変は凄まじいものがある。 |
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拝殿前に行列する5対の狛犬たち。ふつうは1対なので、これはさだめし合祀されたお社のものを集めたに相違なかろう。いやはやその表情はいろいろあって見飽きない。 |
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振り向くと参道脇の灯籠も4対ある。が、狛犬とはちがって灯籠は寄進されたものが追加で並ぶ例が多い、な。 |
本殿の横にあった「乳牛山大道寺跡」の碑。明治初年の神仏分離令によるものか。それにしても珍しい山号。 |
「乳牛」にちなんだものとしては神社を出るとすぐ見えたのが「乳牛牧跡」。写真を撮らなかったがこの辺について全く無知であったことを思い知らされた。その他にも次に見えるお地蔵さんやお寺。そのむかしH社「こうばちょう」だった吉田さんがこのあたり「瑞光何丁目」かにお住まいだった。乃公にとって「瑞光」ってその程度の知識しかなかった。 |
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逆巻の地蔵尊。click→お地蔵さん。もと淀川付近に祀られていたのをここに移したらしい。 |
鯨橋瑞光寺。onmouse→鯨骨橋。当寺はなんと、紀南は太地町と至極密接な関係があると聞いた。詳細省略。 |
上新庄に坐す春日神社。社殿は南西に向く。もと榊神社。天正六年に春日大神を勧請して春日神社とし、榊神社は摂社となる(境内に現存:撮り損ね)。 |
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灯籠には“春日宮”とある。 |
やや閑散の気配がある境内。樹は立派。灯籠の右端の鳥居が(写ってないが)榊神社の鳥居。 |
東淀川区内にはまだ2社ある と冒頭に書いた。で、行かなかったのか? そう、大隅さんを探し損ねて行ったり来たりした結果、上新庄春日社にお参りした段階で“本日の予定終了”とは相成ったのである。 |
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今日の総歩数 (4.6`÷0.65*1.2≒)8,500歩  ̄|△| ̄ ルートマップはこちら |