寒い日に近江路を歩くAHO  2020年3月15日

♣ 独 行“旧栗太郡式内社を歩く-その2” ♣

いやいや何年か前には吹雪を衝いて野洲の田んぼの中を歩いていたではないか、などと突っ込まないでほしい。あれは辿り着いた先で鴨鍋が待っていたのだから。というのは言い訳だろうな。先日からダウンジャケットに代えて薄いウィンドブレーカーを着て違和感がなかったものだから、今日も同じとばかりの扮装。言わんこっちゃない、数回パラパラと俄雨にも遭った。マフラー1本が役に立ちました。ハイ。人の言うことは聞くものです。

JR草津線手原駅で降り、11:29発貴生川行き列車を見送る。

駅前に未だ新しい石碑が四つあった。@源平布引滝一番札所 A東経136度の子午線の通る駅 B手原駅の沿革 C手孕(てはらみ)伝説由来・・・判るかな?

旧東海道の手前にある真慶寺の境内。地蔵がずらり。説明碑に「手孕地蔵尊/手を孕んだ伝説が歌舞伎(源平布引滝)に安産守護の地蔵菩薩となる」云々とある。解読ムツカシー

あれは古墳?と写真を撮って通過。帰宅後調べたら「椿山古墳」。栗東市内最大級の帆立貝型前方後円墳だと。

墓地を抜け、名神をくぐる。ここまで初めての道だったのにガード向こうの景色にデジャヴ。そうだ、前回はそこへ名神沿いに左(栗東IC)から歩いてきた。

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金勝川を渡る灰塚橋。前回はここを(曲がりゃいいのに曲がらずに)渡って小槻大社へ向かってしまった。

今回は渡らないで左折し、右岸を遡行する。振り返れば河原のススキ林の向こう遠く比叡山。

何じゃこれは。(下記の)鳥居下も大きくえぐれて水が溜まっていたし、何よりもこの社殿がすべて作り立ての新品。背後の山には土砂止めがいくつも重なっている。WEB情報の写真とえらい違いだ。何事があったのか。

※このような事態は乃公初経験。煩瑣に亘るを厭わず本殿そばの碑を採録する。(数字はアラビア数字に変更)

由緒/大永4年(1524)本殿棟札には地下衆の名前が記され下戸山の鎮守社であった。延喜式神名帳にある栗太郡8社の一つで蘆井造鯨とその祖先を祀ると伝える。祭神は木俣の神。
土砂災害と本殿再建/平成25年(2013)9月15日台風18号の接近により上砥山観測所では降り始めからの総雨量436ミリ、一時間当たりの最大雨量43ミリを2回記録。そのような中、16日未明安養寺山で豪雨による土砂災害が発生。轟音と共に流れ出した高さ100メートル幅30メートルの土石流が本殿を飲み込み跡形もなく消失。社務所神輿蔵も土砂に埋まり全壊。9月28日氏子により復旧作業開始。10月3日、瓦礫の中よりご神体を発見。御神像は滋賀県指定文化財となる。
本殿の再建経緯/平成26年度の十六日講で再建決議 復興再建委員会発足/平成29年8月19日地鎮祭/平成30年7月14日上棟祭/令和元年6月16日竣工祭/設計施工 株式会社西澤工務店(彦根市)
奉納 五百井神社氏子一同/令和元年6月建立

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前回のリベンジ先 かつ今日の第@ターゲット・五百井いおのい神社。式内蘆井イホノヰノ神社の論社。というより『五百井=蘆井』とみなされているらしい。祭神は。写真左から参道鳥居、拝殿(立入禁止)、本殿。社号碑は「五百井神社」、鳥居扁額は「蘆井神社」となっている。祭神は木俣神。本殿と拝殿がようやく出来た段階のようだ。氏子一同さんに拍手。

ちょっとうすら寒かったが、ここで昼を遣わせてもらうことにする。足元では土筆が盛りを過ぎていた。

境内の杉の巨木(ご神木:滋賀県の名木指定)。周りに小さな石仏30体。

金勝川堤防から神社一帯を望見。背後は安養寺山。この山の別の斜面でもいくつか同じような土砂崩れが発生しているのを見かけた。

安養寺山東麓に広がる新興住宅地を越える。名神が見え、やや、これもデジャヴ。前回はここを向こうから抜けてきた栗東ICでないか?

その通りでそのICを抜けて出たとこが栗東高校。この辺は寒いのか、梅がまだ咲ききってないみたい。

菜の花は満開だのに。。近江富士=三上山が大きく見えるということは、その場所が多分野洲川の氾濫原だということなのだ。

旧東海道を越え、

JR草津線の踏切を越え、

国道1号線を越えて、

高野神社に着いた。名神を抜けたところからここまで2.2`。ほぼ真っ直ぐの道。

式内・高野たかの神社 は今日第Aのターゲット。祭神は大名草彦命。写真左から神門(四脚門)、拝殿、本殿。このお社は明治初年の統合の名残りか境内社が多い。曰く、八重釜神社、敏鎌神社、大神宮、森勝稲荷神社、祖霊社。。。野洲川氾濫原なんてものでなく、ここから野洲川まではほんの300bしかない。ある種“河原”みたいな近さである。

「中ノ井川広域河川改修工事」ネットで調べたらこんな風に出ていた。済生会病院あたりから新幹線まで工事中に次ぐ工事中で、行き止まり、引き返し、強行突破(日曜日で工事休み)などだいぶんロスしたが掘削溝に落ちることもなく・・。新幹線をくぐりJR東海道線踏切を渡って大宝神社裏口の公園に辿り着く。写真左は三上山、真ん中赤屋根は済生会看護学校、右にチョッと見えるのは済生会滋賀県病院。

高野神社から4.5`あったことは、足がだいぶんよれよれになってきたことで実感。それにしても正直「大宝神社」という社名が目に飛び込んだ時は「エ、違う」という戸惑いだった。式内社たる追来社が大宝神社の“店子”さんだったとはこれ如何。

その大家さん「大宝神社」の神門、拝殿、本殿。

今日の第Bにして最後のターゲット 追来オフキ神社。式内社意布伎いぶき神社の論社の一。写真は左から“大家”大宝社の社頭鳥居、追来神社社殿、追来社前のクスノキの大木。因みに意布伎神社の論社は滋賀県下に当社を含め4社坐すが、厳密にいうと所在不明だと(玄松子さんは)いう。

大宝神社ウェブサイトより拝借:

地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎(伊不伎)神社と記されている。社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。御神木は、いぶきで、意布伎の意は「オ」とも読めるため「オフキ」とよんで追来に転じたとされる説が有力である。
ㅤ「イフキ」の「フキ」は、息を吹く、風を意味し風の神である。また、雨乞いにより雨を授けて頂いたので水の神でもある。
ㅤ地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される。

大宝社境内(鳥居脇)にあった芭蕉の句碑。♪へそむらのまだ麦青し春のくれ♪ はせを。ただこの句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていると傍の説明板にあった。が、乃公の目の及ぶ範囲で“芭蕉の句の存疑表”には見当たらなかったがなァ。

その説明板。末尾に「綣行政区」とある。因みに「綣」は「へそ」と読み、芭蕉の句の「へそむら」は当時の「綣村」であったのだろう。

これで今日の予定終了。距離がそこそこあったのに道草を食ったとは事後反省。寒かったが唯一ウィンドブレーカーでよかったこと、それはフードがあって(ダウンには無い)、帽子をあまり濡らさずに済んだことだろうか。

今日の総歩数 17,110歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら