♣ 独 行“攝津の式内社リベンジ” ♣
Blogにも記したことであったが、今日あれから1年になる。歩みは遅々たるものだが許されたリハビリに今日も出かけて行った。乃公はといえば、気管支炎はピークを越えたがまだ外出にはマスク必須の段階。腰が落ち着きの様相を見せている今日は天気予報も晴れマーク。火曜日はKOHYOの日(好評の日ではない)だがY子さんに後押しされて、いざ。式内社は大阪市内に論社というより関連のお社の如何に多いことかを、5時間のWalkで思い知らされることになる。 |
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@式内生根神社。攝津名所圖會には次の通り記されている。 住吉大神社(中略)奥天神社(おくのてんじんのやしろ) 大海神の北一町計(ばかり)にあり。〔延喜式〕に、生根神社少彦名命を祭る。文明十四年十二月二十四日、大自在天満宮を祭る。社の西に紅梅殿あり、東に観音堂あり、神宮寺より法要を勤む。例祭八月九日。住吉里及び近隣十餘村の生土神とす。(攝津名所圖會) |
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境内社天満宮 |
境内社種貸神社。住吉大社境内には式内多米神社の論社で種貸神社があるが、それとの関連は判らないらしい。 |
その西口にたつ(南正面にはない)石鳥居に刻まれた年号は「文化元年甲子」云々。ということは1804年。 |
逆コースをなぞりチンチン電車の踏切2つ越えて南海粉浜駅に戻り更に北西地下鉄玉出を経由して都合1`半で上の天神こと生根神社にたどり着く。これは南口鳥居。 |
A生根神社(上の天神)。因みに当社は式内社ではなく奥の天神から少彦名神の分霊を勧請したものと伝え天神の名もそこからきたという。摂津名所圖繪にこう記すのが当社か。天下茶屋邑天満宮(てんかぢゃやむらてんまんぐう) 住吉街道に有。祭神菅公。此地の王土神とす。例祭九月十五日。額の天満宮は寶鏡寺宮理豐徳巖尼公の筆。能書にして世に名高し。原此里は勝間村の出在家なり。今天王寺村の内にして東生郡に属す。勝間村及び住吉北の入口、新家の町拍戸の邊は西成郡、其町端は住吉郡なり。此邊郡界紛然として暁しがたし。写真は左から正面(北口)鳥居、拝殿、本殿。 |
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R26を北上。すぐ見えてくるのがこれ、南海汐見橋線架道橋(汐見橋線は通称名で正式には高野線の一部ということになっているが、岸里玉出駅では難波から来た高野線とは完全にブチ切れていて盲腸線になっている)。二度踏切を渡った阪堺線や上町線は1枚も写真を撮っていないので片手落ちよ喃。 |
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上町台地を南行する熊野詣の始発点というだけあってこのあたりは八軒家はじめこのような史跡に事欠かない。右写真は八軒家方面から出てきたバス、左は熊野街道説明碑。船着場から南行する道路の急坂のさまが上町台地の在り様を示している。 |
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北大江公園の銀杏黄葉まっさかり。かつてO-GWDの練習場だった聖公会の教会が、と思ったがカン違いだった(中大江公園のそばだった)。 |
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B坐摩神社行宮。式内社坐摩神社は秀吉大阪城築城までここに鎮座していたと伝える。坐摩神社(中略)御旅所(おたびしょ) 石町北彌兵衛町にあり。其邊石町石濱の名あり。これ皆むかしの御鎮座石あるによっての名なり。毎歳六月二十二日神輿を社内の神石に安坐し、神事執行有。往古の遺風なり。(攝津名所圖繪) |
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坐摩神社による“坐摩神社行宮/豐磐間戸・奇磐間戸神社/由緒”説明板 |
神功皇后が鎮座したと伝える石が残り保護柵が設けられているが石は粉々にされていると云。また賽銭は手前の賽銭箱にとの指示にかかわらず硬貨が数枚散らばっていた。 |
天神橋を渡る。 |
橋手前から右上流方面を東望する。八軒家船着場跡の向こうOMMビル、更にOBPのビル群。 |
C大阪天満宮 写真は左社頭神門、右本殿。 |
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久し振りに歩き、また歩き通せてホッとする。それにしても攝津名所圖繪を改めて開いてみて照合にかかろうとしたが、長いブランク状態がたたったかカン違いが頻発、相当な書き直しを余儀なくされた。研究論文でもなんでもないのだからエエ加減にしておくべきと今頃反省している乃公なのである。 |
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