静市市原から上高野かみたかの・八瀬へ  2016年9月1日

♣ 独 行 “山城国愛宕郡式内社をゆく(続)” ♣

「暑い暑い」とブツブツ言ってばかりいても仕方がない。「山城国愛宕郡の式内社はややこしい」とボヤイてみても始まらない。なんとかできるところからでもクリアしてゆこうではないか、というところから今日の催行決定。しかし、大原の神明神社や静市の静原神社を入れると少なからずキビシイものがあると判断して外した。このほか下鴨神社境内社はともかくとして、北区小野や大森など遥か山の中の諸社はどないしようかと悩んでいるのが現状である。

10時半過ぎ叡電鞍馬線市原駅頭に降り立つ。向こうの橋脚がかつて複線だったことを偲ばせる(?そうでなくて複線化のために準備しているだけか?)。因みに二軒茶屋駅以北が単線なのだそうである。

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市原駅すぐ山手に控えしは本日第@ターゲット・大神宮だいじんぐう社。式内鴨岡太神社の論社。かつて市原は岡本郷と呼ばれ、その産土神との伝承による、らしい。左から国道からみた参道(右手に社名石碑/onmouse-up)、社頭鳥居、本殿。ちょうど氏子さんの寄り合い中のようでお邪魔してしまった。

大神宮社の参道途中を叡電が横切る。鉄橋橋脚は上述同様複線用に作られている。この向こう突き当りが府道、そして厳島神社。神社参道を鉄道が突っ切っているのは近鉄南大阪線でもあったなァ。

今日の第Aターゲット・厳島いつくしま神社。大神宮同様の理由で式内・鴨岡太神社の論社の一。

大神宮から下り道真っすぐ北西100m弱。

府道40号線沿いに坐す簡素なお社。明治までは厳島弁財天と称したという。

境内の大樹の根っこ。

再び叡電の人となり、八幡前下車。11時半前。

名だたる三宅八幡宮さんというのに門前でのご挨拶だけですみません。別名「虫八幡」。社頭で睨みを利かしているのは狛犬ならぬ「狛鳩」。神池畔でしばし噴水の写真に集中する。

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八幡さんから500mそこそこで本日のターゲットB伊多太いたた神社旧跡到着。左から境内全貌、記念碑正面、同側面。碑には「延喜式内社/伊夛太大社旧趾」とある。大正4年に崇導神社境内に遷されたという。

大原へ抜ける国道367号線沿いに坐す崇導すどう(道)神社は今日の正式ターゲットではなく境内の式内社3社のいわば家主さん。

藤原種継の事件に連座したとして死を賜った早良親王の鎮魂(その実は祟り封じ)の宮。死後贈られた「崇道天皇」名を冠した神社は全国に19社ある。

都名所図会に曰く、高野社(たかののやしろ) 高野村、東の山下にあり。祭神早良親王。又高野の御霊と称す。土人生土神とす。例祭は三月五日。神輿一基。祭礼のとき、神幸道定まらず。ただ神慮に任せて田畑・川脈に限らず、つねに路なきところを渡るなり。これに逆らふときは神輿重くして上がらず。あるいは神輿の勢ひによって人家の方へおもむきたまふときは、檐活・檐を破らるることあり。御霊の御こころに協はざれば、たちまちそのところを動かずして去りたまはず。村民手に汗を握りて神威を恐れ奉るなり。惣じて神輿舁きは、所の古老の者出でて烏帽子・素袴を着し、無言にして祭礼をわたすなり。まことに霊応希代の例祭なり。『神名帳』には、「出雲高野神社」と見えたり。
 上記は現在の崇道神社と出雲高野神社がごちゃ混ぜになっている。当図会が書かれた時代はこういう認識だったのだろう。また次の記述は下記の伊多太神社ではなく、上記「旧跡」のこと。
 ○いたいたの大明神は『神名帳』云く、「伊多太神社、愛宕郡にあり」。疑ふらくはこの社か。いま高野村西の山際に森あり。社は絶えたり。社領田字にあり。九月九日これを祭る。土人、いたいた大明神といふ。(後略)

すぐ右に坐すのが式内・出雲高野いずもたかの神社。大正4年に当社に遷されたという。本日のターゲットC

そして手前左側には今日のターゲットD・伊多太神社。式内社で事情は前社に同じ。

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石段を下りて参道途中右側に広場があり、山裾の取っ付きにこの石碑「小野毛人朝臣之塋(はか)←/山上一四〇メートル」14年前に来たときはここを登って碑の写真を撮っている。今日は遠慮した。

本日の第Eターゲット・小野おの神社。式内社。祭神は小野妹子・毛人の親子。都名所図会には、小野神社(おののじんじゃ) 『神名帳』曰く、「小野神社二座、愛宕郡」。いま詳らかならず。」とあり、当図会が書かれた時代にはお社がなかった。再建されたのは昭和46年になってから。

高野川を南に渡る。比叡山がすぐそこ。

比叡の支尾根が高野川に突き出したところ一帯が御蔭神社の神域。鬱蒼たる桧の樹林。

都名所図会に曰く、御蔭社(みかげやしろ) は叡山の西の麓、高野川の東にあり。下鴨皇太神宮降臨の地なり。かるがゆゑに御生山といふ。例祭は四月中の午の日なり。内裏より恒例の祭式魏々として、氏人は騎馬にて列を正し、神馬には錦蓋をかざし、楯・鉾・弓等の神具さまざま列なり、音楽にて下鴨の神臨幸あるなり(後略)。」

今日の第F(最終)ターゲット・御蔭みかげ神社。賀茂御祖神社(下鴨神社)の境外摂社で、式内社である出雲高野神社ならびに小野神社の論社でもある。もとは山裾に坐したが高野川の出水で流失しここに遷座したと伝える。

今日の予定終了は八瀬。電車駅とケーブル駅をつなぐ橋から見る高野川は涼しそう。水遊びの歓声もそこここから聞こえていた。よく見ると今日のお社は市原と八瀬ではなくて、市原と上高野だった。八瀬駅のある場所が八瀬の南端で、八瀬の中心というのはここから北へ3km地点の区役所出張所などのあるところらしい。そこには八瀬天満宮や九頭竜大社、西林寺などあって高野と大原のちょうど中間だ ということに、今気付いた。
 それはともかく、国道に出たら目の前に京都駅行きバスが来たのでこれ幸いとばかり飛び乗って本日の予定終了。

今日は7社を巡り沢山行ったように思ったが、よくよく考えると7社中論社が重複したりして式内社単位でみれば4社だけ。・・・・・・・京都のお社を歩いていて思うのは、式内社の論社が多いこと。これは延喜式が編まれた時代「都」であった京都だけにいろんな政変や度重なるいくさを経て伝承する人の集合離散、お社自体の衰微廃絶など、人々の記憶が様々に分化し、途絶していったことの結果ではないだろうか。

今日の総歩数 8,626 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちらこちら