♣ 独 行“天理市内の式内社巡り” ♣
ここんところ宿痾の腰がホンモノではない。でも引き籠っていたらホントに本物でなくなってしまいそう。天気予報が晴れだったのを頼りに大和路の式内社巡りを再開する。。。今日は天理市内の一部(そう、多いんだよ、ここは)で大和路快速から桜井線を乗り継ぐ。関係ないがひとこと。いつも思うのだが、この快速は天王寺を出ると次が久宝寺、そして王寺、法隆寺と順に止まってゆく。これって素晴らしくないかい?乃公だけか? |
|
10時半櫟本駅下車。無人駅。岸辺からの運賃1,140円也。どこかの中学の野球部員らしき一団が去るとあとはひっそりかん。 |
|
駅から東北500mで今日のターゲット@楢神社=(式内奈良豆比古神社論社)到着。左から正面鳥居、社号碑と拝殿、本殿 。。若い夫婦が子供連れで来ていて聞かれる「この神社の方は居てはらへんのでしょうか?」乃公が知る訳はないのだが、聞くとお神札を返しに来たという。そうこうしているうちにケータイで連絡が取れたようで結構でした。 |
|
途中見かけた民家。奥に母屋があってこれは庭に作った“新宅”さん。材料は新建材かもしれないが、でもしっかり大和棟の様式で建ててあるところが目を惹く。 |
|
1.4km北行して今日の第Aターゲット森神社到着。これは式内太祝詞神社だという。いとも簡素なお社で境内には社名をうかがわせる標識の類は何もない。社殿は本殿のみ。ただ社叢は見事なもので遠目にそれと知れる。 |
|
“梅は写真になりにくい”とはSH先生の口癖だがどうしてどうして。。 |
|
サンシュユ(山茱萸) |
記紀に伝える「和珥坂下傳稱地道」の標識。 |
次は南東へ1km、和爾の集落内に存在感を示す和爾座赤阪比古神社は今日B番目のターゲット。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。大和名所図会にこう記す。和爾坐赤坂比古神社(わににいますあかさかひこのじんじゃ) 和爾村にあり。〔神名帳〕に出づ。今天王と称す。 |
|
今日のコースはすべて天理市内だが、昭和29年の町村合併で天理市になるまではここ櫟本町を中心とする添上郡と、旧丹波市町を中心とする山邊郡(あと磯城郡柳本町)だった。大雑把にいうと天理市の北半分をいま歩いている。やがて小山が目の前に。東大寺山古墳群の一、和爾下神社古墳だ。 |
|
全長105mの前方後円墳(前期末頃)。この古墳後円部頂上に今日の第Cターゲット・和爾下神社が鎮座する。 |
|
境内にある“影媛哀れ”(武烈紀)の歌碑。 |
境内正面鳥居だが正面の摂社前で左、すぐ右にクランク折れしている。 |
息をつかせない正面の石段。これが古墳後円部の斜面だ。 |
登り着いた正面に拝殿が威容をほこる。当社は治道(またはジドウ)神社という別称があり、かつて牛頭天王を祀ったことから天王社とも呼ばれるという。またこのお社は式内高橋神社の論社の一でもある。 |
本殿は厳重な柵が囲繞してこれだけしか望めなかった。大和名所図会に謂う。和爾下神社(わにのもとのじんじゃ)二座 横田村と櫟本村とにあり。治道天皇と称す。〔神名帳〕に出づ。 |
神社の杜西側に柿本人麻呂ゆかりの柿本寺跡があった。正面は大蛙を従えた人麻呂像。櫟本は彼の出身地という説あり。 |
柿本寺跡から西方250mに一の鳥居が奈良街道(右狛犬後ろに道標あり)に面して建つ。 |
一の鳥居脇の万葉歌碑(16-3824)。 |
これで今日の前半を完了し、後半・山邊郡へと歩を進める。南方へ西名阪道をくぐって約1km。目指すは石上市神社。今日の第Dターゲットだ。 |
|
左から石上市神社正面鳥居、拝殿そして本殿。このお社はもと東方の平尾山にある姫丸稲荷神社の辺りに坐し、江戸中期に現在地に移されたと伝える。 |
|
そして更に南東へ1.3km。山にかかる辺りに今日の第Eターゲット・山邊御縣神社。式内山邊御縣座神社の論社という。左は一の鳥居、右は二の鳥居。さして境内は大きくないのに妙に広々として閑散の感あり。 |
|
左は拝殿、右は本殿。(山邊御縣神社は市内西井戸堂町にもあり、大和名所図会にはそちらだけ掲載されている) |
|
御縣さんから西へ1km進むと 今日最後のターゲット・祝田神社。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。拝殿前の円形状のものは相撲の土俵らしい。祝田神社(はふりだのじんじゃ) 田部村にあり。今天神と称す。【大和名所図会】 |
|
ここから真っすぐ南へ1kmで天理駅。構内で昔懐かしいヤキメシ¥550 を食べて今日の予定終了。近鉄経由で帰る。 |
|
今日の総歩数 16,963 歩  ̄|△| ̄ ルートマップはこちら |