♣ 独 行“野洲川旧流路を歩く” ♣
Google Map の航空写真で見た野洲川は今の本流の両側に“北流”、“南流”と通称される 放水路完成(1979)前の旧い流路がくっきりと確認できる。この川が概ね守山と野洲の町を分けるのだが、いざ歩いてみると、まあ何とわかり辛い。というより殆んど旧流路が標高170cmの目からは判別できない。 ここでふと気が付いたのだが、航空写真で前方後円墳をみてある種の感動を覚え、ひところ百舌鳥・古市・佐紀そのほか古墳群集地域を巡った時代があった、が、一つとしてこの目で同じ感動を覚えたものはなかった。それと一緒。人間の“低さ”や“小ささ”を痛感しながら歩いた2時間の記録を ま、ご覧うじろ。 |
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野洲駅に降り立ったら迎えてくれたのは雪。吹き降り状態で容赦なく睫毛の無い乃公の顔面を直撃する。この状態で10kmを2時間歩くのかと思うと一瞬怯む。写真背後にうっすらとのっそりと三上山。 |
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京セラ工場の傍を400mにわたって北上。人っ気が全くない。 |
市三宅地区の産土・屯倉神社。鳥居扁額には「正一位一三子大明神」とある。ここは分流前の右岸堤の上。 |
堤防上に出て竹生集落の際を歩く。航空写真ではこの竹生が旧流路の左岸。今や旧流路痕跡が見辛く、新川の右岸としか見えない。遠く比叡山。 |
竹生の産土・日吉神社。見落としそうにひっそり。 |
竹生を出てからバイパスを延々4km北上して堤の集落へ。これが長かった。 途中右岸の小比江に矢取神社、北比江に三河神社、いずれも河道から離れていて割愛。 |
向こうの信号がバイパスを横切る県道48号線(右近江八幡、左守山)。このバイパスが北流跡なのだ。今まさに昔の川の真ん中を歩いている。 |
堤の集落の向こうに比良連峰が・・と書くつもりで撮った写真なのだが、如何せん雪雲に覆われて表比良の盟主・蓬莱山はとうとう見えなかった。集落ど真ん中の大屋根は正覚寺。 |
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堤集落で北流はS字状に大きくカーブするが、その核となっているのが産土の狩上神社。 |
神社に咲くスイセン。去年も己爾乃神社で水仙の写真を撮ったっけ。 |
赤い前掛けをした地蔵さん、と合点して撮った写真なのだが、よく見ると地蔵さんらしき石仏は数えるほどしかなく、大半が五輪塔を模した小さな石塔。背後に見える駐車場は野洲川歴史公園およびサッカー場などスポーツ施設の利用者のものと知れた。それらすべて旧北流の跡地利用の結果で、この石塔も周辺から掘り出されたものらしい。 |
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吉川集落南端に立つ碑。丸石面には「地の利は人の和」(左)、下部には「野洲川廃川敷地北流南流骨材採取平地化事業完成記念碑」(右)とあった。理解困難な碑銘で悲鳴を上げそう。 骨材(こつざい)とは、コンクリートやアスファルト混合物を作る際に用いられる材料である砂利や砂などのことを言う。(Wikipedia) |
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ここ吉川集落の名家と思しきお屋敷の庭に妙な石碑を見つけた。曰く「瀬田渡し処」(最後の文字不明確)。 |
産土・矢放神社。「矢」取 とか 「狩」上 、「矢」放 など狩猟民族のにおいがする。そうだ、近江には俵藤太が三上山の大百足を退治した伝説もあった。 |
「おのりやす」のキャプションについ乗せられそうになるが、いやそうなるものか。あと2km余、頑張って参ろう |
湖岸 菖蒲集落の産土・杜若神社にようやく到着。日が当たってまずは重畳々々。左方掲示板下の碑は下記参照。 |
♪長沢の 池のあやめを 尋ねてそ 千代のためしに ひくべかりける♪ 藤原俊成 |
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今日の総歩数 15,510 歩  ̄|△| ̄ ルートマップはこちら |
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一歩遅く、バス組は既に到着し、お待ちかねであった。あやめ荘さんの佇まいは変らず。 |
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約3時間後、出来上がっていたにしては比較的温和しい記念写真であったよ喃。山田さんご夫妻に感謝。 |