美多彌神社社頭一の鳥居 |
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拝殿 |
本殿 |
国神社の鳥居。広大な堺公園墓地の中に溶け込んだ存在。 |
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参道の石段 |
小祠。これしかない。櫻井神社へ合祀された後に故地に再建されたもの。 |
櫻井神社正面。このお社には鳥居が無い。 |
本殿前の碑にはに合祀された式内社名が記されている山井神社はその一。「山井神社(やまのいじんじゃ) 栂村にあり。延喜式内也。今、天神と称す。【和泉名所圖會】」 |
国宝に指定されている拝殿。「割拝殿」という形式で、鎌倉時代に遡るという。 |
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拝殿の向こう、本殿の前にあるもう一つの拝所。修祓用の椅子(胡床)が置かれてあった。 |
本殿。 「桜井神社(さくらゐのじんじゃ) 片倉村にあり。延喜式内也。祭神、武内宿禰に八幡宮を併せ奉る也。生土神とす。桜井社頭にあり。【和泉名所圖會】」 |
杜若でとみに著名な大田神社は上賀茂神社の境外摂社。ちょうど楓が新芽をふき丹塗りの鳥居に映えて美しい。 |
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拝殿 |
本殿 |
通称上賀茂神社。一の鳥居 |
二の鳥居。向こう細殿前に立砂が見える。 |
重文の楼門。ここの桜は終わっていた。都名所圖會に曰く 「鴨下上(かもしもかみ)皇大神宮の御社(おんやしろ) は天武天皇白鳳五年の造営にして、下の社御祖の神は加茂健角命の御娘玉依姫にてまします。あるとき、瀬見の小河のほとりに遊びたまふに、丹塗りの矢ひとつ流れ来りしを拾ひ取り、屋のうへにさし置き、しばし経て孕身となり、つひにをのこごをまうけたまふ。一日里人をあつめ宴を催し、盃をかの男子にあたへ、「汝が父にさしたまへ」といひ聞かせ侍るに、盃を虚空に投げうち、神とあらはれ天に昇りたまふ。これなん上の御社別雷(わけいかずち)太神宮なり。丹塗りの矢は火来命なり。松尾大明神これなり。葵祭りは卯月中の酉日、欽明帝の御宇に始まる。大内より御車出でて公卿みなみな騎馬にてあふひかづらをかけ、音楽を奏し、その儀式厳重にして美麗の行粧他にならびなき祭礼なり。まつりとばかりいふは、あふひ祭りのことなり。(後略)」 |
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拝殿(拝所) |
拝殿から本殿方向を窺う |
通称下鴨神社。正面鳥居。 |
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楼門。都名所圖會に曰く 「鴨下上(かもしもかみ)皇大神宮の御社 は天武天皇白鳳五年の造営にして、下の社御祖の神は加茂健角命の御娘玉依姫にてまします。あるとき瀬見の小河のほとりに遊びたまふに、丹塗りの矢ひとつ流れ来りしを拾ひ取り、屋のうへにさし置き、しばしへて孕身となり、つひにをのこごをまうけたまふ。一日里人をあつめ宴を催し、杯をかの男子にあたへ、「汝が父にさしたまへ」といひ聞かせ侍るに、杯を虚空に投げうち、神とあらはれ点に昇りたまふ。これなん上の御社別雷(わけいかずち)大神宮なり。丹塗りの矢は火雷命(ほのいかづちのみこと)なり(松尾大明神これなり)。葵祭りは卯月中の酉日、欽明帝の御宇に始まる。(後略)」 |
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拝殿(拝所) |
拝殿から本殿方向を窺う |
ならの小川をまたいで鎮まる井上社。別名みたらし社。みたらし川は、土用になると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから鴨の七不思議にかぞえられる。出雲井於神社の論社の一。都名所圖會の挿絵賛に云 下加茂御本社 ♪きくたびに頼むこころぞすみまさる加茂のやしろのみたらしの聲♪ 定家 |
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河合神社東の鳥居。珍しく正面ではなく東西に鳥居が並び立つ。下鴨神社一の摂社で小社宅神社に比定されている。 |
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神門 |
拝殿 |
本殿。都名所圖會の挿絵賛に 下加茂河合社 ♪千早振るかものやしろの姫小松よろづ代ふるとも色はかはらじ♪ 敏行 |
「穂椋神社(ほくらじんじゃ) 小倉村にあり。延喜式内なり。今、天神と称す。【和泉名所圖會】神社本庁への登録は「菅原神社」で「穂椋神社」は『通称名』とされている。しかし社頭の堂々たる社号標石に敬意を表して ここは「穂椋」さんだよ、としておこう。以前間違ったのは→こちら。もう一つの論社は→こちら。 |
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拝殿 |
本殿 |
穂椋神社は久米田池と牛滝川に挟まれた丘陵地に坐す。ものさびてはいるものの、その鎮まりかたは尋常ではない。このありよう、好きだな。 |
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大鳥郡・等乃伎神社 4月11日 (式内 大歳神社(大鳥郡)を合祀) |
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社頭一の鳥居。「殿木連」と巨木「枯野」(その影が朝は淡路島に達し夕方は高安山を越えたという)の伝説が伝わる。今やJRの駅名が「富木」となり、このお社の名前も万葉仮名の名残りか。【和泉名所圖會】に曰く「等乃伎神社(とのきのじんじゃ) 冨木村にあり。延喜式内なり。殿来氏の祖神。今、天神と称す。」 |
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拝殿。なお、合祀されたと伝える大歳神社(大歳神)は相殿に鎮まるとされるが詳細不明。 |
本殿。殆んどシャットアウトされていて“木の間隠れ”。手前は「旧御本殿跡」碑。 |
日下部首の由緒あるお社。神武天皇が長髄彦と戦った「日下の蓼津」はこのあたりだろうと言われる。「日部神社(くさべのじんじゃ) 草部村にあり。延喜式内也。日部の祖神を祭る。今、牛頭天王として産沙神とす。」【和泉名所圖會】 |
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拝殿 |
本殿 |
「鈴の宮」という“冠詞”をもつ当社は蜂田連が土鈴をつくって占卜を行った伝承による。【和泉名所圖會】に曰く「蜂田神社(はちたのじんじゃ) 平井村にあり。延喜式内也。祭神、天児屋根命。今、天神と称して氏神とす。」 土鈴の伝承は今に残る。 |
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拝殿 |
本殿 |
車折神社正面鳥居 |
同拝所。社殿は修復工事中。★なお、当社は式内社ではない。 |
正面鳥居は第二阪和国道の高架にモロに面する。式内石津太神社の論社。もちろん石津町中に坐す石津太神社も論社のひとつなのだが、両方正しいのだろうという論が多いように見受けた。〔以下再掲〕 「蛭子神社(ゑびすのしんしゃ) 上石津、下石津の両村にあり。〔延喜神名帳〕曰、石津大神社云云。(中略)孝昭天皇七年八月十日、始而、社を建て、事代主命を併奉りて二座とし、正月十日を例祭とす。上石津は八月十日也。【和泉名所圖會】」。 鳥居扁額には「石津大社」とある。 |
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拝殿と神樹の大楠。 |
本殿。この脇に「三度叩いてお願いする」ための「祈願板」があった。 |
舩待神社拝殿。このお社は塩穴天神と言われ、菅原道真の祖先を祀り、今や菅原道真を併祀するという。 |
本殿。 |
正面鳥居。神宮庁のリストでは「船待」だが、あえてこの社頭の社名碑の表示に敬意を表し「舩待神社」とした。境内に「瘡神社」があり、当社の地主神だという。 |
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宿院頓宮 3月12日 (式内 大鳥井瀬神社(大鳥郡)を合祀) |
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宿院頓宮の正面鳥居。北東を向く。元来住吉っさんの御旅所だったが明治以降に大鳥大社の御旅所ともなり、摂津国和泉国両国一の宮の頓宮として現在に至るという。境内には海幸山幸の神話に登場する潮干珠を埋めたところとされる飯匙堀があり、雨水が溜まらないと言われる。角柱が特徴の住吉鳥居だ。 |
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拝殿。大鳥さんの御旅所となったのが明治ということで、当然和泉名所圖會には記載が無い。 |
本殿には主祭神として住吉大神と大鳥井瀬大神を祀ると伝え、ここで「式内社・大鳥井瀬神社<大鳥五社の一>」とつながる。が、甚だもって分かり難い。 |
大鳥郡・開口神社 3月12日 (式内 生國神社(大鳥郡)を合祀するという) |
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東南に向く鳥居。onmouse-西北参道の鳥居up |
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開口神社拝殿(左)と本殿(右)。境内は広壮で摂社末社が多い。また 明治以前まで存在した神宮寺の存在が大きかったらしく、今なお残る通称名も「大寺さん」という珍しいもの。 |
高石神社社頭。紀州街道に面する。 「高石神社(たかしのじんじゃ) 高石荘、海道の西側にあり。延喜式内にして、高石の祖、王仁を祭る。今、天神と称す。(後略:和泉名所圖會)」 |
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拝殿。この裏にかつて海水浴客のために設置された高師浜駅が(高架にはなったが)古い佇まいを残す。この周囲の松林こそかつての海岸の名残だろう。 |
松籟のなかの本殿。 |
二の鳥居から拝殿方向。右手は井戸守稲荷大明神。賑々しい。 |
本殿。当社は大鳥五社明神の一つ。そのため“大鳥浜神社”とも言われるらしいが、本稿では社頭の社号標石の表示に従った。 |
拝殿。新しいのだが本殿共々やけに直線的なのが目立つ。 |
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当社も大鳥五社明神の一。広々とした社域にさっき立ち寄った羽衣濱神社そっくりの新しい社殿が並ぶが、人の気配が全くない。その落差。≪2014.6.15追記:大鳥造。大鳥五社の一≫ |
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本殿。 |
拝殿。 |
拝殿。右写真の通り現在修復中。 |
本殿。当社は式内石津太神社の論社の一。名前はそのままなのだが・・・ |
石津太神社の名前の読み、ここに来るまでずっと「いしづ・た・神社」と思っていた。この鳥居から社域が始まるようだが、実は向こうの狛犬の手前を一般道が横切っている。 「蛭子神社(ゑびすのしんしゃ) 上石津、下石津の両村にあり。〔延喜神名帳〕曰、石津大神社云云。(中略)孝昭天皇七年八月十日、始而、社を建て、事代主命を併奉りて二座とし、正月十日を例祭とす。上石津は八月十日也。【和泉名所圖會】」。 これでわかるように今日すっ飛ばした石津神社ともども「圖會」の時代、つまり江戸時代には「ゑびす神社」として認識されていたらしい。 |