♣ AZハイキング第155回例会 “奈良「歴史の道」を訪ねて” ♣
先月に続いて今月例会も抜けるような青空。歩かなくてどうしよう。そう独り言ちるほどで陽光はもちろん、気温もはや初夏。は言い過ぎにしてもウィンドブレーカなど持ってこなくてよかった。今日の収穫(収穫なんてハイキングに収穫を求めてどうしようもないのだが)は秋篠寺の伎芸天立像に対面できたこと。KNさんなどはひょっとしたら連れて帰りたいと言い出すのではないか、と。感嘆久しうするとは将にこのことと、そちらに感嘆してしまう乃公でありました。 |
||
尼ヶ辻駅頭に降り立つ。空は青空、☆※は若い、ディック・ミネを気取ってる場合か。click-碑面up |
宝来山古墳。遠く信貴生駒の山並み。田道間守の墓と伝える小島が周濠に浮かぶ。 |
|
古墳を覆う木々はアオサギの営巣地? 無数の水鳥が植物生態系にダメージを与えているのは琵琶湖の竹生島でも見たところ。 |
||
振り返ると畑に黄色い実が。そしてこの看板☆なら橘プロジェクト/「橘オーナー」を募集しています 年間一口2,000円☆ |
||
そう、この「ミカン」。田道間守といえば垂仁天皇の御代に「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を探しに出かけた。持ち帰ったら天皇は亡くなっていた。悲しみのあまり墓前で泣き死んだと伝える。その「橘」なのだと。田道間守って「但馬守」だよな? 出雲や但馬がまだ大和政権に完全に服属していなかった頃とすれば、この伝説は但馬勢力がヤマトへ帰属する過程を表しているのでは?(ネット論調の受け売り) |
||
伝・垂仁天皇菅原伏見東陵。考古学者は地元の「宝来山」という古い呼称から「宝来山古墳」とも呼ぶらしい。全長227mの前方後円墳で5世紀前半の築造とのこと。決して徳川時代の急拵えではない。(因みに墳丘長は全国で20番目の長さ。仁徳陵はこの2倍以上) |
||
阪奈道路の陸橋から見下ろした喜光寺全景。境内に置かれた無数の鉢は当寺名物の蓮。創建当初はは菅原寺と呼ばれたという。 |
南大門(2010年再々建)から覗いた本堂。この建物は行基が東大寺大仏殿を建立する際に十分の一の雛形として建てたとの伝承から、「試みの大仏殿」と俗称される(Wikipedia引用)。重文。 |
|
数年前までは「菅原神社」だったのが今は立派な標石に「菅原天満宮」。1100年前の延喜式でも「菅原神社」だったのに。菅原道真出生地というより菅原氏の本拠地のお社なのだ。 |
菅原天満宮から東100mにある「菅原天満宮遺跡天神堀/この池は菅原院の一部にして相伝菅神の遺跡であり古くから菅原道真公の産湯の池と伝えられております」云々。 |
|
西大寺にほど近い民家の庭に植わっている「エゴノキ」の花がが満開。久しぶりにお目にかかった。(2007年 能勢・歌垣山(男山)頂上、2009年 小塩山頂上、2010年 式内社巡り中池田市呉服神社近くの民家で) |
||
やや雑然とした西大寺南門前「史跡 西大寺境内」の碑。 |
それにひきかえ南門内は数人が感嘆の声を上げた。整然・清潔・簡素。殆んどの人が東側(駅最寄)から入るのであまり知られいていない景観。 |
|
西大寺本堂 |
本堂から望む東塔跡の基壇 |
|
秋篠寺南門への道。左の茂みは八所御霊神社(元 秋篠寺の鎮守神)の社叢 |
||
秋篠寺本堂(国宝) |
伎芸天立像(本堂内) ネットから借用・深謝 |
|
秋篠寺東門を出たところで、バスで西大寺駅に向かう皆に別れを告げ、独行で東へ向かう。競輪場を通過させて貰い、平城駅→成務天皇陵・日葉酢媛命陵の北辺→歌姫街道に入り北進→今日の最終ターゲット(下記)。計 2.4km。片道 |
||
歌姫街道は旧下ツ道。その北限にこのお社がひっそりと坐す。onmouse-up |
♪このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに♪ 菅原道真 |
|
♪佐保過ぎて 寧楽の手向に 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとそ♪ 長屋王 |
||
平城駅まで、出来れば西大寺駅まで歩いて帰る予定で歩き出したが、300mほど歩いたところに止まっているバスを見つけたら、もう意気地がない「乗ろ」。運転手に聞くと「すぐ出ます」。せいぜい2km。これでホッとするあたり、齢はとりたくないものです。歌姫町→西大寺駅 7分で¥210 でした。 |
||
応接室にK大人ご来駕 | ||
行程表及び参加者 |
||
第十一代垂仁天皇陵 | 近鉄奈良駅近くの居酒屋で打ち上げました |
|
今日の総歩数 19,180 歩  ̄|△| ̄ ルートマップはこちら |