信貴山麓男性独行輩  2011年9月6日

♣ 独 行 ♣

タイトルは申し訳ないが、かの“筑波山麓男声合唱団”の面白くも何ともない捩りである(苦)。
 8月30日につづいての八尾市内式内社巡りの第2弾。物部の色はやや薄れたものの、旧大和川流域で農業を主としたであろう人々の息遣いの聞こえてきそうな村落、在所。こういうところは道なりに歩いて共同体が大切にしてきたものに行き逢えるようになっているのが何とも不思議なところだ。

まず、志紀駅近くの弓削ゆげ神社。延喜式に「一座」とある以上、次の河内大社とのいずれかが正しいのだろう。何度も流失で建て替えられていて、何れも微妙に本貫地と異なるのかもしれない。

JR大和路線に沿う長瀬川流路は哀れにも細くなってしまって街中を直進する。ここと河内大社の間が更に一段低くなっていて往時を偲ばせる。

“河内大社”と冠をつけてこの東・弓削神社はその存在を主張する。河内名所圖會にいう「東弓削村」はここだったのだろうか。

町中を抜けると信貴の山々を背にし、田畑の向こうに鎮守の杜が浮かび上がる。都留美嶋社。

都留美嶋つるみしま神社。曙川東の集落が西の低湿地へ落ちるキワの微高地・都塚に鎮まる。

都留美嶋社を出て東行。まもなく信貴山地にかかろうとするあたりを南北に縦断する東高野街道。

神宮寺は古い集落。その中で異彩を放つ在地豪族・神宮寺小太郎塚の碑。楠正成八臣の一人で、四条畷で討死したと伝えられる。

神宮寺地区の鎮守・八王子神社。延喜式に「常世岐姫神社」とあるのがこれとされる。安産の神様だとか。まあ小さい。

八王子神社から東へ坂をのぼると神宮寺。サルスベリが青空に映える。ここから北へ恩智神社を目指す。

地図に従って右へ右へと歩くとこんなところも。

右へ歩きすぎてこんなところに出てしまった。溜池で釣り人5人。まあ薮蚊のひどかったこと。後で判ったのだがここは恩智神社の真上(裏)。

その結果“登って参拝”が山道を“下って参拝”になってしまった。河内二ノ宮と云われる恩智おんじ神社。かつてもっと下に鎮座していたのが山城に見下ろされるため今の高い位置に遷座したのだという。

閼伽あか井戸。清明水ともいい、雨の前には水が赤茶色に変わるという。 蛇足:閼伽はラテン語aquaで水の意。←これは俗説

摂社・春日神社。天児屋根命を祀る。拝殿の右脇に鎮座。

長い石段を下る左に新築まばゆい感応院。本社の神宮寺だった。

さらに府民の森をわき目に北行するとここ岩戸神社一の鳥居。ここからのコンクリ道がシャレにならんくらい厳しかった。「体力落ちたなァ」。

Sample

社前の石標は「式内高御座神社」。右奥に修行用の滝はあるし、区別してるようだが、いろんなものが混合していてややこしいことこの上ない。(けど、これがわが国の民間信仰の素直なあり方なのだ。無理に分けようとした明治の政策って何だったのだろう。)

延々町中へ下りてくると、小さいのによく目立つ場所に鎮座する「権現社」。慶長年間熊野権現を勧請したのだという。黒谷4丁目。

信貴山口駅へ出るつもりが間違えて次の服部川駅まで歩くことになってしまった。近鉄信貴線は単線。河内山本行きはこの時間帯で1時間2本しかない。

懐かしや服部川駅。その昔(→ ここ )AZハイキング例会で生駒山縦走・十三峠から水呑地蔵を経て下山したとき、最終ゴールがここだった。あるかあらぬか、その3日後循環器病センターで「ハイ入院」となる直前の例会だった。あれから8年。

今日の総歩数 約15,000歩    ̄|△| ̄   ルートマップは省略