♣ 独 行“洛西の式内社を巡る” ♣
【乙訓郡・大井神社】大井神社。 ※延喜式神名帳では大井神社は乙訓郡のお社として記載されているが、現存する場所は紛れも無く旧葛野郡。このため真偽をめぐってネット上では結構喧しい。ついでながらこのお社は「都名所圖會」に記載がない。(ちなみに大井⇔大堰川) これでも“一の鳥居”。参道は駐輪場になっている。渡月橋北詰という地の利を生かして商売繁盛。 覆屋内の本殿。 【葛野郡・櫟谷神社(櫟谷宗像神社)】櫟谷神社参道石段。このように「櫟谷宗像神社」と通称される。 本殿。松尾大社の境外摂社である。渡月橋南詰め右へすぐ。観光客目当ての色彩が濃い。曰く“えんむすび”。 櫟谷神社の鳥居。見てのとおり扁額には「櫟谷神社/宗像神社」と併記されている。二社を一殿に併祀しているらしい。 「櫟谷(いちいだに)のやしろ はあらし山の麓にあり。松尾七社の内なり。(都名所圖會)」 【葛野郡・松尾大社】松尾大社一の鳥居。西に山を背負ったお社を晴天の3時過ぎに訪れるとこういう写真になる。喝! 二の鳥居。注連縄にぶら下がっているのが“脇勧請”。吊り下げられた十二の榊の枝は月々の農作物の出来を表すという、古習俗を残している。。そうだ。 本殿。 「松尾社(まつのおのやしろ) は梅津の西にあり。(別雷山は社のうしろの山なり。当社の明神の降臨の地なり。松尾山ともいふ)。(中略)本社は祭るところ二座にして、大山咋神・市杵嶋姫なり(神秘あり)。大宝元年に秦都理といふ人、社を建てて分土山より遷し奉る。(中略)四月十一日、始めて加茂より山城国山田庄荒子山に伝へ奉る。加茂の丹塗りの矢化して松尾の神と現ず。すなはち秦良兼・同じく正光、松尾の守護となる。いまの社司の遠祖なり。松尾七社(月読社櫟谷社・三の宮・宗像社・衣手社・四大神・当本社<おのおの本殿の傍らにあり>(以下略))(都名所圖會)」 乃公訪問は初めて。思えば学生時代、寺院巡りはよくやったが、神社は何故か無意識に敬遠していたように思う。 内側よりみた楼門。夕方の色が濃い。 拝殿。これもれっきとした“舞台”だ。他と違うのは、舞台上に修祓用のイスがしつらえてあったこと。 【葛野郡・月読神社】月読神社神門。ここも松尾大社の境外摂社である。 神社本殿。森厳の空気が漂う。 月読神社の鳥居は桂の旧道沿い。どこかのサイトに「松尾大社の南500m」とあったが、そんなにはない。境内は京都市が史跡に指定している。都名所圖會にこう記す。「月読社(つきよみのやしろ) は松尾の南二町にあり。松尾七社の内なり。(当社鎮座のはじめは、往昔にして年歴知れず。松尾より以前と見えたり。斉衡三年三月に、山城国葛野郡月読社を松尾の南に移すよし、『文徳實録』に出でたり。(以下略))」 【葛野郡・梅宮大社】梅宮大社二の鳥居と神門。 「梅宮(うめのみや) は四条の西、梅津の里にあり。祭ること四座にして、酒解けの神・大若子・小若子・酒解け子の神なり。相殿には橘贈太政大臣清友・檀林皇后嘉智子を祭る。(後略)(都名所圖會)」 梅宮というから梅林を期待して行ったが、数本植わっていただけ。それも撮影失敗して、何のコッチャ。 舞台。このあたりの神社には結構多い。今日も松尾・月読・ここと三つ目だ。もっとも松尾では「拝殿」と書いてあったが。 本殿。このあたりの神社では本殿の前に拝殿が“デン”と構えているところがない。拝所に玉垣が連なって聖所を守っているようにみえる。 早春愛宕山 |