【比賣許曾神社】JR鶴橋駅から数分という場所で、写真から読み取れるとおりの環境にある比賣許曾神社。社頭の説明板に「実に荘厳なる社殿なりしも数度の兵乱により改築毎に小社となり遂に天正年間織田氏の石山本願寺攻めの兵火に遭い辛くも難を避けて摂社なる牛頭天王社に移りぬ云々」とあったが、それだけ古は大きかったということだろう。今や民家やアパートが神社の軒すれすれに立ち並んでいる。 比賣許曾神社(ひめこそのじんじゃ) 味原郷小橋村にあり。〔延喜式〕に曰く、東生郡比賣許曾神社、名神大、月次相嘗・新嘗。〔三代實録〕に曰く、貞観元年正月授従四位下。今小橋村生土神とす。例祭正月十二日比賣許曾祭。五月五日菖蒲刈神事。十一月二十五日橋架の神事。(攝津名所圖會)
拝殿。お昼の写真は難しい。色が出ない。
本殿
【生國魂神社】この生玉さんこと生國玉神社の西に接する下寺町は大阪の寺院密集地。古い話だが高校時代コンクールで上阪するとき常宿はこの界隈の寺院であった。 難波坐生國國魂神社(なにはにゐますいくくにくにたまのかみのやしろ) 高津の南にあり。祭神生魂命、大國玉命なり。〔延喜式〕に曰く、生國魂二座、名神大、月次・相嘗・新嘗。〔三代實録〕に曰く、貞観元年春正月。奉授従四位下。秋九月奉幣。爲祈雨祈焉。大坂上町市中の生土神とす。例祭六月二十八日。御祓と稱す。九月九日を秋祭といふ。御朱印三百石を西生郡下難波村にて賜ふ。 當社は、神武天皇紀戊午九月難波に鎮座す。社頭は今の御城の地なりしが、明應五年本願寺蓮如上人御堂創建の時、やしろを側に移す。其後、天正年中平信長と本願寺顕如上人と数箇年合戦の時、兵燹に罹りて灰燼となり、纔に神璽を鎮めて小祠を営む。慶長のはじめ、豊太閤金城を修補し給ふ時、今の社地に遷さる。奉行は片桐東市正且元とぞ聞えし。(攝津名所圖會) ㅤ上町台地の西の際に建つ大きなお社で、いろんな末社がひしめく。彦八祭りが行われるなど芸能とのつながりが濃い。
拝殿
本殿
【坐摩神社】その昔乃公が職を奉じていた道修町の薬品会社は秋の神農祭が町の“本祭り”として、そして御霊神社およびこのざまさんこと坐摩神社の例祭がご近所の祭礼として“貰い休み”と称して休日であった。有給休暇などなかった時代と記憶する。今は昔。 坐摩神社(ざまかみのやしろ) 船場の中央にあり。〔延喜式〕神名帳に云く、座摩神社、大、月次、相嘗・新嘗。勅願所にて、伏見院勅額に難波大社座摩神社とあり、又菅公奉納の眞筆にも、難波大社とあり、右の勅額は今幣殿に掛る。西成郡の惣社にして、往古は一郡一社の神社なれば、元來西成一郡の生土神なり。例祭六月二十二日・九月二十二日、鳥掛神事十一月十六日。 攝津名所圖會にはこう書くが、“ざま”は通称で、正式には「いかすり神社」というのだそうな。よく見るとこの鳥居は三輪鳥居だ。いま気が付いた。
拝殿
本殿。左背後はイトチューさん本社ビル。
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