又兵衛桜と大宇陀の街歩き  2010年4月9日

♣ Glee34歩こう会“又兵衛桜” ♣

あれはもう5年前になるか、会社OBのハイキングで訪れたのが又兵衛桜との出会いのはじまりだった。うららかな陽光とまだ五分咲きだった花の表情。そして天益寺の色の饗宴、徳源寺の織田4代の墓地など。大宇陀の歴史ある街歩きとあわせてこれをぜひG34歩こう会の諸氏に味わってほしいという思いで2年後にハイキングを立案した。しかし雨天中止であえなく計画は潰えてしまって現在に至る。
ㅤそんなこんなで日取りは2005年同様の4月9日にしたが結果は? どうぞご覧うじあれ。

まず又兵衛桜三態

これでは当日の花の状態はわかるまい。大変残念なことに花はほとんど終わりであった。バスのドライバーさん曰く“1週間遅かった”。それにしてはキレイに見えません? 何? カメラマンの腕? 有難う。(お世辞はそこまで)

参集した6名。キーワードは“お城のダイコクさん”

かぎろいの丘に立ち、方位板で四方の山々などを同定。高森君がかつて訪れたという松山城の場所についても講釈あり

かぎろいの丘休憩所で早昼食。日は射さず、風は冷たく、食べることに一所懸命

丘を降りると、目の前に大和富士の美称をもつ額井岳ぬかいだけ。標高813m

ほどなく式内社阿紀あき神社。阿騎野とよばれるこの地区の生土神

天益寺てんやくじ。平成3年焼失の本堂再建は基礎工事が終わったところだった。これは庫裏前の大枝垂桜

天益寺のサクラはほとんど葉桜だったが、レンギョウをはじめとするこの斜面の彩りはどうだ

徳源寺本堂前に咲くサクラをバックに1枚
天益寺もそうだったが、ここもいわゆる「お寺建築」ではない。火事か何かあって庫裏を使っているのだろうか。無住寺だそうな

寺からほどなく尾根の突端にある織田家四代の墓地
ㅤ石段を降りると、すぐ近くに同じ苗字のお宅があって一同びっくり

旧松山城の名残を留める唯一の遺構・松山西口関門=一名黒門ともいうそうな

春日神社全景

春日神社境内にあった大杉の切り株

春日神社入口にあるので春日門といわれる石垣は旧松山城のものであったという
ㅤ歴史的にはどうなんだろう?神社は言わずと知れた春日大社の荘園となったモニュメントともいうべきもので、お城の石垣を神社が利用したのか、ひょっとしたらその逆かも?

風情ある大宇陀のメインストリート
ㅤ真ん中右の突き出し看板は「薬の館」。旧藤沢薬品ゆかりの品々を中心としたクスリの歴史資料館
ㅤ管理人に約半時間たっぷりと解説いただいた

森野旧薬園見学
ㅤ吉野葛=カタクリ粉の沈殿槽を前にしてモミジの紅い新芽はみごとだった

『アミガサユリ(編笠百合)。別名をバイモ(貝母)といい、毒草である』 と、ものの本にあった。でも毒草らしくなく、下向きの花がどこか可憐でさえある

ここ森野旧薬園の象徴・カタクリの花は満開。この根っこから吉野葛がつくられる

薬草園最上部にある桃岳庵とうがくあん

桃岳庵の庭先に咲く天台烏薬てんだいうやくの花。 秦の始皇帝の命で不老不死の仙薬を求めていた徐福が、和歌山県新宮市の蓬莱山で発見したのが「天台烏薬」だったと伝えられる

薬草園斜面から西望した大宇陀の町並み。又兵衛桜は体育館のさらに向こうにある

実は薬の館を出たら花曇の空が一転して青空になっていた。青空好きの乃公としてはぜひとも一枚加えねばなるまいということで、これは薬草園の斜面に咲くサクラ。

そうだ、5年前も紹介しておこう。<→ここ

大宇陀町、いまは榛原・菟田野・室生と合併して宇陀市になったという。でも街中の佇まいにさしたる変化があったわけではなさそうだ。
 5年前に比べて若干道路が、、、という程度かな。

16時のバスで榛原駅に向かい、3年越しの懸案であり乃公の宿題でもあった又兵衛桜行きは無事打ち上げることができた。まずは目出度しメデタシ

今日の総歩数 16,908歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら