攝津名所圖會 巻五 −抜粋−


(カッコ内は編者注)

茨木神社 同所(島下郡茨木座)にあり。祭神素盞烏尊、左春日明神、右八幡宮。茨木庄内上中條・下中條の生土神(うぢがみ)とす。例祭九月十日。

因に云ふ、凡て村里の生土神、[延喜式]の神名を喪ひ、或は藏(かく)して牛頭天王(ごづてんわう)と稱し。神代の天神を天満天神と呼び、又は八幡宮・稻荷・春日と唱ふ事、当國に限らず、山城・大和にも粗(ほぼ)見えたり。土人神名のむつかしきを嫌ひ、云馴れたる名高き神号を呼んで、一村の生土神と祭ること、世上皆此義と思へり。愚按ずるに、左にあらず、元龜天正の頃、織田信長公四海掌握の計策により、南蠻國より邪宗門を招き寄せ、比叡山を燒討にし、大阪本願寺を攻め、高野山まで亡さんとし給ふ。それより諸社・諸山を滅亡する事多し。初めは日蓮宗を信じ、此宗徒を以て諸山を滅さんとす。日蓮宗これをいなみしたがはざりしかば、又此宗徒を追放す。六箇年が間此宗門京都に一人もなし。多くは泉州堺津あるひは備前・備中の方へ逃げ趨(はし)る。織田公亡びて後、豐臣公に至りて元の地へ返る。殊に当國は織田方高山右近在城し、此邊の神社佛閣を破却する事多し。然れども神社の中に於て、天照太神・祇園牛頭天王・八幡宮・春日・稻荷・天滿宮は神國の名神なれば、破却する事を恐れしより、此の禍を免る。これによって[延喜式]の遠き神名を隠して、名神の神名にして愁訴し、災を免れたるなり。古代の神名のかくれたるは多く此所謂によるなり。殊に信長の生土神は尾州津島牛頭天王なり。

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