「イェスきみはいとうるはし」原譜探し顛末記 34年卒 脇地駿
昨年CCD50周年記念事業の延長事業としてシャンテ<スタンダード>の編纂が幹事会で承認されたのを受け、歴代<学生>指揮者が招集され編纂の委員会が開かれた。
ここで念押しされたのが、いわゆる「決定版」のため、各曲とも「原譜」をもとにすることであった。
問題はCCDにとってもっとも大切な「イェスきみは」の原譜をどうするかであった。
この曲は森本先生がクリスチャンセンの編曲を下敷きにし(あるいはそれを手直しし)、再編して発足直後のCCDに下さった可能性が非常に強い。
いずれにせよ、長い間ガリ版楽譜の伝承でCCDに伝えられたこの曲は、ひょっとすると森本オリジナルと変わっているかも知れない、この危惧が私にずっとつきまとっていた。
森本先生の手書き原譜があれば、それにこしたことはないが、森本家にそれを求めることはもはや無理なので、当時現役指揮者だった織田幹雄さんに頼むしかない。シャンテ・スタンダード委員会で私の意見を織田さんに申し述べ、探して下さいとお願いした。織田さんは「あまり期待せんといてや」ということであった。
1947年当時のグリーも、発足したばかりのCCDも、特にCCDでは、織田さんは森本先生不在の時に練習指揮を担当しておられたので、織田さんの楽譜があれば、原譜と同等の価値があると考えたからである。
〜(中略)〜
早春の某日織田さんの自宅を軍手持参でお訪ねした。午後1時から5時までCDを聴きながら山積している楽譜やプログラムを調べさせていただいたが、ない。グリーの他の指揮者に比べ混声への関わり方が各段に多かったはずの織田さんにしては、不思議にも皆無といった状態だった。男声合唱の楽譜は沢山あるのに、これはおかしいと思ったものの、「脇地さん、これ以上探すところはないよ」と言われ、諦めざるを得なかった。「なにかの拍子に出てきたら期限は構いませんからご一報下さい」というのが精一杯だった。
ところが、である。3月末になって織田さんから「脇地さん、イェスきみの楽譜が見つかった」との電話がかかった。状況をお聞きするのももどかしく、翌日がシャンテの京都練習日だったので、その練習の前にお宅へ伺った。アッタ、アッタ。思わず黄色いボロボロに近い数枚の譜面を押戴いてしまった。
これは私にとって45年ぶりの懸案解決となったのであった。楽譜はヘンデルの「今帰る聖なる勇士(ユダス・マカベウスより)」とのカプリングで、末尾に「D.U.M.C/1947.6.1 copied by T.Fujito & Y.Ban/學生合唱聯盟音樂會ノ爲ニ」とある。D.U.M.C.はDoshisha Univ. Mixed Chorusの略だろうか。いずれにせよ当時は同志社学生混声合唱団とも、CCDとも言わなかった。これは今回はじめて明らかになったことであろう。ちなみに庶務日誌によれば、同志社学生混声合唱団の団名は1948年6月17日決定され、Collegiate Choral Doshishaの名称を森本先生から頂いて決定したのは1948年10月28日である。この楽譜が作られた1947年はいうまでもなく同年2月CCDが発足した年であり、CCDにとって現存する最古の楽譜である。この為書きにある音楽会は大阪朝日会館で1947年6月21日に開催された、今の合唱祭の前身である。CCDの対外的初ステージで、森本先生の指揮により歌ったとは、織田さんの記憶である。譜面には織田さんが赤鉛筆で記した練習上の記号が散見される。前述の通り、森本先生に一番近かった指揮者の使用した譜面であるが故に、これは先生の原譜と同等と見なして差し支えないだろう。
もし森本先生がご存命だったら、編曲上お聞きしてみたい個所が何箇所かあるが、今となってはかなわぬこと。私達にできる修正は、初歩的な誤りなどごく限られた個所についてでしかなく、この「原譜」を再現することが課せられた責務であろう。
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